じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

ポイエーシス

2017-07-28 01:06:14 | Weblog
☆ 100分de名著「レヴィストロース」第4回。そこで、プラクシス(実践)とポイエーシス(創造)が紹介されていた。

☆ プラクシスというのは、ある目的のために事物を利用すること。ポイエーシスというのは、事物の本質を外に引き出すこと。

☆ それを聞いて、教育のことを考えた。

☆ 「教育」というのは、もともと「孟子」が出典だそうだが、明治期にeducationの訳語として使われるようになった。

☆ 西洋の教育はキリスト教を基盤としている。それは原罪を背負った人間をいかに人間らしくするかを課題としている。時にはムチを使ってまで、知識を詰め込み、徳性の涵養を目指した。先の言葉で言うとプラクシスだ。

☆ 近世になり「子どもの発見」が主張され(それまでは子どもは小さな大人と考えられていた)、educationは、子どもの可能性を引き出すことであるという考え方が広まってきた。ポイエーシス的な考え方だと思う。

☆ しかし、理念的にそう考えられても、実際は近代公教育制度の成立とともに国家に有用な人材の育成に重点が置かれるようになった。

☆ 21世紀に入り、日本社会は成熟した。価値観が多様化し、教育の目的が富国強兵から、一人一人の人格の完成、幸福の実現に移ってきた。人間を「型」にはめて育てることに限界が見え、中途半端ながらポイエーシスが求められるようになってきたように思う。

☆ こうした点は仏教に先見の明がある。仏教では一人一人の人間の命の中に仏性というものを認める。「無作の三身」(ありのままの仏の境涯)を認める。縁に触れることによって、それらが顕現すると考える。教育、例えば教師の働けかけはその縁にあたる。教師に限らず、人に限らず、一人の人間の周りのあらゆるものが縁となり、仏性を引き出す契機となる。

☆ 「教育」というのは、よくできた言葉だ。教えること、育てることの両方を含んでいる。教えるの語源は「をしむ(愛しむ)」だという。育てるの語源は「そいたつ(副立つ・添い立つ)」だという。子どもを大切にし、その成長を支えるといったことだろうか。

☆ それがいつからか、規格品の製造に変わった。学校はその規格品をつくる工場ということか。

☆ 茶碗、一つ一つに個性があり、風情がある。それが価値を持つ。私たちは工場で大量生産される茶碗に慣れてしまっているが、一つ一つの茶碗を味わうゆとりをもちたいものだと思った。

☆ 教育について考えさせられた。
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2 コメント

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Unknown (ねこあたま)
2017-07-28 05:54:25
難しい話ですね。
十年ぐらい前までは、「規格品」になろうと、「社畜」となろうと、会社は生活を支えてくれたので、それでも良しというのがあったと思います。
とはいえ、今はどうなんでしょうか。
Unknown (じゅくせんまさや)
2017-07-28 09:27:41
ねこあたま様
コメントありがとうございます。
明治以降、急速に工業化を進めるため、人の規格化をすることが、効率的だったのだと思います。成熟社会、脱工業化社会になると、単純作業は機械、ロボットにとって代わり、人にはよりクリエイティブな能力が求められるようになってきたと思います。かつてのように多くの人材が必要ではなくなるので、有り余った人々をどうするかが課題になると思います。
企業が従業員の家族を含めて面倒を見てくれたのは、日本の特徴だと思います。昔の「お家」の伝統があったのでしょう。今は終身雇用も危うくなり、また従業員もプライベートな時間を大切にするようになったので、会社が生活全般に面倒を見るといった経営風土が変わってきたのだと思います。

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