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公共図書館の資料への介入を拒絶できる根拠

2012-02-13 11:18:40 | 図書館・情報学
  前回「公共図書館と知的自由の結びつき」に否定的なことを書いた(参考)。誤解を招いたかもしれないが、僕が反対しているのは「図書館の自由」の議論全体ではない。日図協による『図書館の自由の宣言』からは、図書館サービスへの外部からの介入を避けるという本筋の議論と、図書館はあらゆる情報要求を即時充足させなければならないという前文から導き出された議論の二つがある(参考)。前者は一定の条件で認められるものだが、後者には根拠がなく政策論として怪しいというのが僕の考えである。

  憲法は政府の行動を制限するものであるという通常の法理解に従えば、政府が言論統制をせず、国民はコストさえかければあらゆる出版物にアクセスできる状態にあるというだけで「知る自由」は達成されていると言えるだろう。もちろん、生存権のように政府支出によって可能となる権利もある。しかし、情報アクセスがそうした権利の一つに入るかどうかは微妙なところだろう。仮に入るとしても、地方公共団体を単位としてアクセス機会を提供するというのは不効率であるように思える。

  ところで、あらゆる情報要求の即時充足という議論の何が問題なのだろうか? なぜ批判するのか?

  それは、そもそもの「図書館の自由」の条件を掘り崩すものだからである。資料に対する外からの介入を拒絶できるのは、資料選択者が専門家だからである。資料選択者が資料の価値を判断でき、公正な選択を行っているという担保があって、外からの介入を不正または不見識として拒絶できる。一方で、利用者の「要求」に従った資料選択はそのような担保を持たない。利用者に資料の価値判断を委ねてしまっているのだから。ならば、別の価値観を持った利用者のクレームもまた正当である可能性があり、図書館として一考せざるを得ないだろう。しかしながら、利用者の要求をベースとするような価値中立的でリベラルな図書館が、対立する価値を裁定できるのかどうかという重大な疑問が残るのである。

  上のようなケースは、知的自由に真面目に従うならば陥る図書館の罠なのだが、そもそもそのような図書館は資料選択すらできないだろう(「収集基準が一方の価値に偏っている!!」という批判がありうる)。実際の図書館は、自身が持つ価値観を隠すか意識しないことによって、資料選択が可能となっている。たいていの図書館は、それぞれの市民の情報要求を公平な目で見ていないのである。付け加えると、それは特に悪いことではない。図書館の目的として、情報要求を満たすことはそもそも間接的なものにすぎないのだから。

  しかしながら、現実の公共図書館の資料選択者が、一般の人より優れた資料選択のエキスパートなのか、という別の疑問は残る。これ無しには、図書館は消極的自由すら主張できないだろう。だが、司書資格の課程で資料間を比較衡量するトレーニングは皆無だし、そうした能力の育成は「現場で」という主張も跋扈している。この問題についてはそのうちに。
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