龍泉寺(加古川市加古川町平野)について3回シリーズで紹介したい。
江戸時代の「加古川宿絵図(部分)・慶応元年(1865)」(下図)を見て欲しい。
龍泉寺(写真右)は、もともと寺家町字蔵屋敷にあった。日本毛織(ニッケ)が、加古川に進出していらい、龍泉寺はニッケに囲まれた。
境内の大きな公孫樹が目立っていた。
*「宿絵図」の向かって左上部に龍泉寺がある。図中の常住寺も移転している。光念寺は、現在も絵図の場所にある。
当時、ニッケは日の出の勢いで、会社は龍泉寺に対して立ち退きを要求した。
檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多かった。
そんな時だった。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちた。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)の夜のことだった。
出火原因は分からないままに終った。
その後、再建のための資材は購入されたが、檀家の中には「この際、別の場所に移転しては・・・」との意見もあり、再建問題は難航した。
従って、龍泉寺の再建資材は、しばらく寝かせたままの状態が続いた。
やっと意見がまとまり、大正5年8月7日に現在の場所に再建された。
それにしても、ニッケが龍泉寺の移転を要求していたまさにその時の出火であった。
「ニッケの誰かが放火した」という噂は、その後もしばらく囁かれた。