現在、加古川市の中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみたい。
・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられれ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・(p30)
加古川地方において、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)である。
この時、郡の境は、加古川の流れを基準とされた。つまり、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としたのである。
私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、加印地方と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきた。
しかし、加古川は天下の暴れ川であった。洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなった。
地図は元禄播磨絵図である。川東の加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属している。なにかと不都合が生じた。
明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入した。
その、印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅した。
*図の「元禄播磨絵図」には、西河原村が出てこない。そして、高砂町あたりの郡境は少し不自然である。この課題は、後に考えたい。
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