以前。二度(2006・6・19、2007・4・1)、湯乃山街道について書いている。
あわせてご覧ください。
そして、この「上荘町・平荘町探訪」は、川の東を歩き回っている。
川を渡る前に、もう一度湯乃山街道について書いておきたい。
◇湯乃山街道(ゆのやまかいどう)◇
その昔、摂津と播磨を結ぶ道は、海岸部の山陽道(西国街道)ばかりではなかった。
有馬温泉を通る湯乃山街道という山陽道の裏街道があった。
湯治客ばかりではなく、当然一般の人も多く利用した。
特に南北朝の時代、播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、京都への軍事道路として整備した街道であった。
湯乃山街道は、京都から有馬・三木そして加古川へ、そこで加古川を渡り、西井ノ口・都染(つそめ)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)の各村を、それから志方町・姫路へと湯乃山街道は伸びた。
上荘・平荘の各村々は、基本的に湯乃山街道沿いに発達した。
湯乃山街道を人々は行き交った。物や情報が動いた。
この街道沿いに、三木城・志方城、そして名刹・報恩寺(現:平荘町)があるのも頷ける。
信長・秀吉の時代、東播磨の各地の城主の多くは、三木・別所氏の支配下にあった。
三木合戦では、街道沿いの村々は、兵(つわもの)の喧騒で満ちた。
ふだんは、湯乃山街道沿いの村々には人々の生活の賑わいがあった。
昔、上荘・平荘の村々は、鄙の村ではなかった。
*写真:旧湯乃山街道(川東の国包)
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