野尻古墳群は県道小野志方線で細工所から小野方面へ行き、野尻集落が途切れる手前にあります。
道から、比較的大きな説明板(写真上)が目につきますので、すぐ探すことができます。(*野尻1号墳は説明板に向かってすぐ左です)
その説明板を読んでおきます。
野尻古墳群
野尻古墳群は志方町北東端に位置し、南を城山、北を周遍寺山、大将が峰にはさまれた細長い谷間に築かれた群集墳です。
かつて、5基以上あったといわれていますが、現在では3其しか残っていません。
野尻1号墳(写真下)は墳丘の一部が削り取られていますが、全体によく残っています。
背後の山の斜面を切って盛り土をした古墳で、高さ3.5㍍、墳径20㍍です。
内部構造は横穴式石室で南面する開口部は両袖式です。
羨道(せんどう・入口から石室までの部分)は一部消滅しており、現在の長さ4.2㍍、天井までの高さ1.4㍍、玄室付近の巾4㍍、幅は奥壁部で1.9㍍、中央部で2㍍、玄室入り口で1.9㍍で、中央部がやや広い長方形です。(以上、説明板より)
野尻1号墳
この野尻古墳の説明に、『加古川市史』『志方町史』そして「説明板」に築造時代の説明がありません。
でも、横穴式石室であり5世紀以後の古墳です。
ここでは、後期古墳(6世紀)古墳としておきます。
500年代の古墳として話を進めます。
昨日(24日)、この古墳の撮影に出かけました。
説明板のあたりを探したのですが、なかなか見つかりません。
そのはずです。入口が竹で覆われて場所が覆い隠しています。
やっと、竹の向こうに入り口を見つけました。竹を押し倒し、やっとのことで石室に入ることができました。
想像していたよりも立派な石室です。
野尻の古代人は農業もはじめていた!
こんな立派な古墳を造ったのは、もちろん古代の野尻の支配者(豪族)です。
支配者(豪族)がいたということは、少なくても数十戸の人々を支配していたのでしょう。
つまり、500年代の野尻は多数の人々の活躍した場所だったのです。
原始的な狩りだけでは、それら多数の人々を養うことはできません。
当然、農業も始まっていたと考えられます。
野尻は、周辺の山からの水が低地部に水が集まる地形です。そこに集落をつくり野尻の古代人は農業生産もしていたのでしょう。
古代人の生活の跡は、長い時間の中で水に削られ、土砂が積もり、現在それらを知ることはできません。