ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

米田町探訪:地名「米田」の由来

2007-08-31 08:37:32 |  ・加古川市米田町

268aae63     きょうのブログは、本文・挿絵ともに『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)からの転載であることを最初にお断りしておきたい。

◇ 米墮(よねだ) 

  大化元年(645)、船師の藤井という人が、年貢の米を船に積んで海を通っいました。

  その時、法華山一乗寺(いちじょうじ)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばせて供米を申し入れました。

  藤井は、自分だけの了見で米を渡すことができないとことわったところ、鉢はふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米も法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。

  藤井は、驚いてあやまりに行きました。 

  藤井が供米をこばんだのは、年貢米を私物として考えなかったことが正しいのであって、おこる法道仙人の方が無理です。

  法道仙人が笑って許すと、米もとのように連なって船へ飛んで帰りました。

  その米俵のうち一俵がこの地に落ちたことから米墮といい、後に米田と呼ばれるようになりました。

  (墮には「落とす・落ちる」と言う意味がある)

  一俵だけこの地に落ちたのは、法道仙人が信仰している薬師如来がまつってあったので、供物としてあった、といわれています。

  その後、米のとれだかもどんど増え、村は栄えていきました。

コメント
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