瀘沽湖(ルーグーフー)のバス停でバスを待っていると、一人のバックパッカーがやって来た。
日焼けした肌と長髪、身長185cm位の大男。初見の印象は戦国武将だ。
「こんにちは」と話しかけたが、言葉が通じてないようだ。アジア系の欧米人かもしれない。
「Hello!」
「你好(ニーハオ)」と彼が答えた。彼は中国人だった。
それまで中国人のバックパッカーに出会ったことがなかったので驚いたのを覚えている。今なら結構いるだろうが、当時は珍しかったと思う。
歳もそれほど変わらなかったので、すぐ打ち解けたが、お互いのコミュニケーションの手段は筆談だった。彼は英語が話せなかったし、自分は中国に入るまで全く中国語を勉強していなかった。
彼も自分も母親を亡くしていた。
「愛是理解」と彼が書いた。発音できなくても意味は分かる。愛とはお互いを理解しあうことなのだろう。
お互いに親近感を抱き、彼は自分を「朋友」と呼んでくれた。
そして、食事をおごってくれた。彼はこう書いた。
「為母親干杯」
お酒を飲めないとは言いたくなかった。飲めない酒を酌(く)み交わした。頭がガンガンした。
「職業は?」
「詩人」
彼は素晴らしい詩を書いていて、自分の詩をスケッチブックに印刷していた(ちなみに、瀘沽湖で書いた詩を見せて欲しいと言うと、瀘沽湖では書けなかったと言っていた。やはり喧騒が気になったらしい)。
内容を完璧に理解出来たとは言い難いが、字面(じづら)を見た感じでは美しい詩が多かったと思う。
そして、深い苦悩を表現したような詩もあったように感じる。
彼ほどの人材なら、立派に後世に名を残すことが出来ると思うのだが、生まれる時代が遅すぎたのかもしれない。彼の求める理想は、今の中国という国には無いのかもしれなかった。
正直言って、身長180cmを超えた戦国武将のような風貌の大男が、こんなにも繊細な内面を持っているとは想像つかなかった。いつ出版するのかと聞くと、一言こう書いた。
【死後】
その言葉に彼の覚悟を見た気がする。
その後バスが着いた街寧蒗( Ning Lang )(ニンラン)(正式名称大興鎮)で泊まることになったのだが、そこには外国人を泊めることの出来る宿がなかった。しかし彼が宿の主に交渉してくれたおかげで、泊まれることになった。
宿に泊まれることになって安心していると、彼が一緒に写真を撮ろうと言うので写真を撮った。すると、彼は突然荷物をまとめだした。来たばかりでどこにいくのかと尋ねると、瀘沽湖に戻ると言う。どうやら詩の着想を得たらしい。
彼は成都(チョンドゥ)に向かうという田舎の囲碁名人(名前は確か金先生)に自分のことを面倒見てくれと頼んでいた。「彼は俺の朋友だ」と言ってくれていた。彼の交渉を何度か見たが、失敗したのを見たことがない。大男なので威圧感があるが、結構笑いを取るのが上手いようだった。
彼は「一路保重!!」をくれ、自分は「一路順風!!」をあげた。
(旅立つ人へ、道中無事でありますようにと挨拶する言葉)
そして、またいつか再会出来ることを祈りつつ彼と別れた。
しかし、彼とはその街で別れたきり会っていない。結局、わずか数時間一緒にいただけであるが、彼は自分の中に強烈な印象を残した。
その後一年に渡って旅を続けて、素晴らしい人物にたくさん出会ったが、最も印象に残った人物の一人だと思う。彼の生き方を含めて。
後にチベットから絵葉書が届いた。自分も何度か手紙を出したが、現在連絡は取れていない。
您現在在哪里?(君は今どこにいるのか?)
※地図はこちら
日焼けした肌と長髪、身長185cm位の大男。初見の印象は戦国武将だ。
「こんにちは」と話しかけたが、言葉が通じてないようだ。アジア系の欧米人かもしれない。
「Hello!」
「你好(ニーハオ)」と彼が答えた。彼は中国人だった。
それまで中国人のバックパッカーに出会ったことがなかったので驚いたのを覚えている。今なら結構いるだろうが、当時は珍しかったと思う。
歳もそれほど変わらなかったので、すぐ打ち解けたが、お互いのコミュニケーションの手段は筆談だった。彼は英語が話せなかったし、自分は中国に入るまで全く中国語を勉強していなかった。
彼も自分も母親を亡くしていた。
「愛是理解」と彼が書いた。発音できなくても意味は分かる。愛とはお互いを理解しあうことなのだろう。
お互いに親近感を抱き、彼は自分を「朋友」と呼んでくれた。
そして、食事をおごってくれた。彼はこう書いた。
「為母親干杯」
お酒を飲めないとは言いたくなかった。飲めない酒を酌(く)み交わした。頭がガンガンした。
「職業は?」
「詩人」
彼は素晴らしい詩を書いていて、自分の詩をスケッチブックに印刷していた(ちなみに、瀘沽湖で書いた詩を見せて欲しいと言うと、瀘沽湖では書けなかったと言っていた。やはり喧騒が気になったらしい)。
内容を完璧に理解出来たとは言い難いが、字面(じづら)を見た感じでは美しい詩が多かったと思う。
そして、深い苦悩を表現したような詩もあったように感じる。
彼ほどの人材なら、立派に後世に名を残すことが出来ると思うのだが、生まれる時代が遅すぎたのかもしれない。彼の求める理想は、今の中国という国には無いのかもしれなかった。
正直言って、身長180cmを超えた戦国武将のような風貌の大男が、こんなにも繊細な内面を持っているとは想像つかなかった。いつ出版するのかと聞くと、一言こう書いた。
【死後】
その言葉に彼の覚悟を見た気がする。
その後バスが着いた街寧蒗( Ning Lang )(ニンラン)(正式名称大興鎮)で泊まることになったのだが、そこには外国人を泊めることの出来る宿がなかった。しかし彼が宿の主に交渉してくれたおかげで、泊まれることになった。
宿に泊まれることになって安心していると、彼が一緒に写真を撮ろうと言うので写真を撮った。すると、彼は突然荷物をまとめだした。来たばかりでどこにいくのかと尋ねると、瀘沽湖に戻ると言う。どうやら詩の着想を得たらしい。
彼は成都(チョンドゥ)に向かうという田舎の囲碁名人(名前は確か金先生)に自分のことを面倒見てくれと頼んでいた。「彼は俺の朋友だ」と言ってくれていた。彼の交渉を何度か見たが、失敗したのを見たことがない。大男なので威圧感があるが、結構笑いを取るのが上手いようだった。
彼は「一路保重!!」をくれ、自分は「一路順風!!」をあげた。
(旅立つ人へ、道中無事でありますようにと挨拶する言葉)
そして、またいつか再会出来ることを祈りつつ彼と別れた。
しかし、彼とはその街で別れたきり会っていない。結局、わずか数時間一緒にいただけであるが、彼は自分の中に強烈な印象を残した。
その後一年に渡って旅を続けて、素晴らしい人物にたくさん出会ったが、最も印象に残った人物の一人だと思う。彼の生き方を含めて。
後にチベットから絵葉書が届いた。自分も何度か手紙を出したが、現在連絡は取れていない。
您現在在哪里?(君は今どこにいるのか?)
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