福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

災害・事故・戦争の続けて起こる理由。(霊訓・・・W・Sモーゼス(浅野和三郎訳)より

2024-01-07 | 法話

霊訓・・・W・Sモーゼス(浅野和三郎訳)より

 ・・・非命の死と罪悪――地の世界には、週期的に争闘が起るものであるが、霊的眼光を以もってこれを考察すれば、畢竟それは善悪の霊と霊との争闘である。すべて世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間に於いて忿怒に充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼夜叉の状態に置かれて居る。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱の種子を蒔く。  一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と憎念とに充ちたままで、幽界生活に突入するほど危険なことはない。天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力を以もって断ち切ってはならないのである。(死ぬ時の意識が最も大切ということは、往生要集等にも説かれています。非業の死を遂げた人々を成仏させることは仏教徒の一大責務です。各宗派では東日本大震災等の災害後も慰霊法要を勤めてきていますが今もって大災害大事故が多発しているということは、非業の死を遂げている死者の霊魂への慰霊が全く行き届いてないということでしょう。又戦争も多発してきました。世界的にみてもこういう不成佛靈がはびこってきたことを示しているのでしょう。宗教者や指導者ひいては人類一人一人の大反省が必要です。)

 

・・・汝等なんじらの所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に坐り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気にめさぬものがあれば、片っ端から之これを傷け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等なんじらの所謂神である。

 まことの神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間の何所にも居ない。それはただ人間の浅墓な心にのみ存在する。

・・ 若しそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。われわれ霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続として肉体から離れて幽界へなだれ込む。すると其所には、残忍性にとめる在来の堕落霊どもが、雲霞の如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層罪と、汚れの地獄と化して行く……。そしてかかる惨劇の起る動機はと問えば、多くは地上の権力者の只ただ一片の野心、只ただ一場の出来心に過ぎないのである。
 嗚呼ああ友よ! 地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりも先まず、まことの神と、まことの神の為めに働きつつある霊界の指導者とを知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、或いはわれ等の示教に対して、侮蔑の眼を向くるであろうが、それ等はしばらく後廻しとし、智慧の教を受け入るることを好む進歩的頭脳の所有者に、われ等の霊界通信を提示して貰いたい。必ずや何等かの効果があるに相違ない。尚ほ・・・彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願をささげて貰いたい。

(浅野和三郎の評釈) 極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説く所ところ頗すこぶる簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二段階に分け、われ等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かの印度思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊ありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰が、一人出来上る丈だけである。日本国民は、一時も早くそんな陋態から蝉脱して、一歩一歩向上の生きた仕事に従わねばならぬ。(たしかに佛教は最終理想形には強いが途中の菩薩行の具体策を説く点において弱いところがあるように思います)。
 次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行詰等を歎息するものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相の由よって来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なる哉かな地上の人類』と一喝されても、まことに致方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものが尚お無数にある。・・・教育制度も甚はなはだ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類には到底碌ろくな考えの浮ぶ筈がない。私は衷心から、日本国民よ、どこへ行くと叫びたい。

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