福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教の大意(鈴木大拙、昭和天皇御進講より)・・・その19

2017-10-19 | 法話

唐時代に,賢首大師の号を賜はった法蔵といふ仏教者がいた。此の人は漢民族が生んだ最も優秀な思想家のひとりである。此の人によりて華厳哲学が完成され,印度から伝はってきた仏教思想は発展の頂点に達したのである。則天武后のために、金獅子の喩で、華厳思想を分り易く解説した小冊子が今なお伝えられている。これを要約して事事無碍の宗旨をお話したいと思います。
㈠ 金には自性がないので、芸術家の手にわたると金獅子といふ形相になる。理もその通りで、縁に随ってどのやうな形相でも取る。
㈡ 獅子といふ形相には実体がない。総てが金である。獅子は有ではない、金は無ではない。理(空)は理として自性を持たぬ、即ち限定せられた形態として対象的にならぬ。
「色(獅子)」を仮相として始めて人間意識の対境となる。
㈢ 獅子は実在でないにしても、知性的分別の上では感性的事実としてそこに幻在するからこれは偏計所執です。次に獅子は因縁所生で、自存の実在のやうに見えるから、それは依他起性である。最後に獅子の本質は金であって、その金は不変だからそれは円成実性である。(偏計所執・依他起性・円成実性は唯識三性といい、偏計所執は凡夫の認識で仮構された存在をいい、依他起性は他に依存する存在をいい、円成実性は完成された存在形態をいう。)
㈣ 金が獅子の全体を尽くして摂収すれば、獅子はその個己性を失脚する。これを獅子の無相性といふのである。
㈤ 獅子が自体を有つやうに見えるのはすべて金の故である。金がなければ獅子は無である。獅子には生滅があるが金はもとより不変である。それで獅子は無生だといふのである。
㈥ 有る面から見て佛教を五段階に分けるがこれを獅子の見方にあててみると次のやうである。獅子は因縁所生で念々に生滅するから実在性を持たぬといふのが声聞教である。獅子は因縁所生で自性がなく徹底して空だといふのが大乗始教である。獅子としての相は空であっても幻有又は仮有としての存在は認めなければならぬといふのが大乗終教である。金(理)と獅子(事)との相互性を抹殺すると知的分別は拠り所をうしなってしまふ。それで空(理)と有(事)との二元対立性も亦ともに亡びざるを得なくなるので、意識は寄る辺なくなり言語も念慮もおよばぬ時節がくるといふのは大乗頓教である。
㈦ 華厳的法界観には十玄といふものがある。十の不思議といふほどのことです。(略)
㈧ 華厳の六相縁起、惣(一般)と別(特殊)、同と異、成(融通性)と壊(自位に還る)これである。
㈨ 上来の所述は何れも菩提を成ぜんがためである。菩提は覚であり、又道である。獅子に対して獅子の性の本来寂滅であることを知り、諸々の取捨を離るることができれば、その路は一切智(霊性的自覚)に到る道である。又永遠の昔から本より何等の迷ひといふもの、顛倒といふものはないのである。一切種智を帯同してゐるといふことがわかればそれは覚である。
㈩ 涅槃に入るといふのは金と獅子と共にその相を盡して究竟じて玄寂であるといふことがわかり、煩悩を生じて好醜の境に迷ふことなく、心安然として大海に波の湛えたる如くなると、妄想はすべて尽きてしまふ。さうして何等逼迫の感をもたなくなる、すべての纏縛を超越し、すべての障礙の及ばない所に達して、何等の苦をも抱かないといふことになる、これが入涅槃である。

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