福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その3

2020-09-08 | お大師様のお言葉
東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その3

私は雪山の中に行きました時に、石窟の中にもぐもぐしている乞食がおったので、私はそれを呼び出しまして毛布を敷いてそこでだんだん話してみると、われわれの知っているような、ヨーロッパ人の研究しているようなウバニシャットの哲学であれヴェーダであれ、こっちのいうだけのことは向うは相当の答えをする。だんだん話して行くと、山の中におって海を知らないのであるから日本の国がどこにあるということを説明するのに甚だ困った。まず第一海というものが分らないのであるから、この山を越すと向うにインドのような大きな国があり、その先に恒河のような大きな河を幾つも合せたようなのがあって、その先にあるのがジャッパンプールである、そのジャッパンプールという所はインドの千分の一ぐらいしかないけれどもいま世界に雄飛している国だといったふうに説明するのでありますがなかなか要領を得ない、けれども静かに考えて、そうして昔ながらの哲学の理想を説き出すというようなことになるというと、なかなか雄弁に説き出す。これは唯一例でありますけれども、インドにはたくさん乞食がおりますが、それは決してその形に見えるような乞食のみの人間ではないということは明らかに言得るのであります。(四国遍路でもこういうスタイルの遍路は多く見ました。彼らは様々な動機で遍路を始めていますが、遍路をしてみるとついにもとの俗世に帰りたくなくなっている、と思われるのです。ローマでもデオゲネスの例は有名です。)
 で、われわれインドの乞食に対する時にはよほど寛大の態度で臨まぬというと時に失敗することがあるのであります。そういうふうな国柄であります。でどんな生活をしておっても自分の精神は失わない、どんなに蹂躙されても自分の理想を失うということはしない、このことだけはインド人はよく心得ているのであります。こういうふうの人種というものはよほど経済という事を頭に置かないような人間でなくては全く出来ないのでありますから、世界にこういう国は他にないといってよいのであろうと思います。それだからインドのことを考える時に、能く此国の状態を間違って説く人が多いのでありますが、そういう方面をお話する目的ではないのでありますから、まず理想が全く違っているということだけをお考え下さいまして、そうしてこの理想の流れがどの位の波紋を東洋に描いたのであるか、また今世界に向って描かんとしつつあるのであるかということを、だいたいはご承知のことでありましょうが、一通り辿って見たいと思うのであります。
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