福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

修験宗旨書等・・・10

2017-12-10 | 諸経
修験宗旨書等・・・10
宝冠論第十(未修行の山伏も五智の宝冠をあらわす頭襟を著すのは、修験者はすべて凡身即佛迷悟不二を顕す姿であるから
尋ねて云う、先達度衆は入峰己満の故、即大日金剛薩埵の位なり。五智の宝冠を着すること置きて論ぜず、しかるに今、未修行の輩人入峰以前手ずから宝冠を著す、もっともこれ信用しがたし、なんぞ其の理あるや?
答えて云、修験の行者は凡身即佛の極理、迷悟不二の内証なり。何ぞ煩わしく修行の有無を論ぜんや。大日遍照は心性にありて外に非ず。両部の密壇は本より己身に荘厳せり。自性の円徳なれば凡身を改めずして之を顕す法爾の曼荼羅なれば修行を待たずして之を備ふ。誠に是天然本具の妙体、五智円明の覚位なり。すでに父母所生の肉身の上に本覚毘盧の体性を存す、然れば則ち未修行の輩、入峰灌頂の指受を被らずして自ら宝冠を著す、全く相違なし。是を本覚の山伏といふ。薄命の者はよく知ることなし。重垢の者は入る事あたわず。牛羊の眼方隅を弁ぜざるがごとし。豈小乗の妄見をもって修験大乗の高端を測らんや。五字陀羅尼経(蘇悉地羯羅經略疏等にあり、五字陀羅尼経にはなし)には、「即於凡夫身現成就仏身」と説き、或は又、「一切衆生色心実相常是毘盧遮那平等智身」(「大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一」にあり)と。竜樹大士は「父母所生身即証大覚位」(不空訳の「金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論」にあり、竜樹の著にあらず)と述べ給えり。もってこれを知るべし。尋ねて云う、五智の宝冠とは金色五角なり何が故ぞ今頭襟は墨色にして十二段ありや?答えて曰、修験深密の法に値ひ自身即佛の道理を覚知する時、十二因縁の当体還って五智の本徳と顕す、豈事相を執して理性を捨てんや。実に是本有不改の実義、即生即佛の極位也。その智にあらずんば敢えてこれを示すなし。恐らくは大道を損じるが故に。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 修験宗旨書等・・・9 | トップ | 大阪法楽寺で12月16日慈雲尊... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事