小林麻央さんが癌で死去されたというニュースが流れていました。幼い子供二人を残して・・まことにこの世は地獄かと思います。
東日本大震災でも無数の不条理極まりない別れがありました。読経に訪れた安置所でも縁者を探す人たちのいいようのない深い静寂があったことを思い出します。
マザーテレサもじつは信仰に揺らいでいたといいます。彼女の日記Mother Teresa: Come Be My Light に書かれてあるようです。「いとけない子供たちがこんな悲惨な目に遭わなければならないなんて神は存在しないのではないか?」という疑問と戦いつつ貧民窟で救済活動を続けていたというのです。
古来人類は人生の不条理に途切れることなく泣かされてきました。
このため司馬遷は史記で「天道是か非か」といいました。大智度論巻二十八には「一人の一劫の中に畜生となるときは・・・その手首を載られ、その身首を斬らるるに是のごとき等の血はこの水よりも多し。是の如くにして無辺の大劫の中に身を受け、血を流すとはあげて数ふべからず。啼哭の流涙、及び母乳を飲むともまたこの如し。一劫のなかの一人の積骨を計るに、ビフラ大山よりも過ぎたり。」とあります(但一人一劫中作畜生時。屠割剝刺。或時犯罪截其手足。斬其身首。如是等血多於此水。如是無邊大劫中。受身出血不可.稱數。啼哭流淚及飲母乳亦如是。計一劫中一人積骨。過於鞞浮羅大山)。
しかしマザーテレサは自分にこう言い聞かせていたといいます。「貧しい人にふれる時、わたしたちは、実際にキリストの身体にふれているのです。わたしたちが、食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは・・・飢えて、裸の、そして家なしのキリストに・・・なのです。」
以前、ある人がスキャンダルで失脚する時「生きてるだけでまるもうけ」と言っていたことがあります。まさにこういう人生の不条理に泣いている人々を思うとき、われわれは生かされている不思議に感謝して少しでも利他行に励まなければならないとの思いをあらためて深めます。利他行のみが自他の人生の不条理を乗り越える唯一の手段です。