今日は、上郷町の旧村社である日出神社の例大祭
例年の如く、奉納団体がやって来る前に神社へ行こうと思っていたが、
どうしても、見たいものができ、寄り道
遠野遺産第105号
ここ平野原は、釜石から遠野へ抜ける釜石自動車道の終着地点を右折後、左前方にある地域
阿曽沼氏が統治していた時代、この地域には平野原舘があり、菊池将監吉武(平野原備後)の屋敷であった。
後に南部氏の領地となり、備後は浪人となるが、南部利直に召し出され、この地に35石を与えられる。
八戸弥六郎直栄が領地替えで、遠野に移ると、備後は遠野を離れ、盛岡南部藩士となる。
江戸時代の「邦内郷村誌」には家数、小林12、権淵14。
「本枝村並位付」には、家数、小林5、権淵22、位は下の下。
とあるように富裕な土地とは言い難い地域であったようだ。
「御領分社堂」によると上郷ぶんとして、平倉村に神明・熊野権現 俗別当文七とあるが、
現在の平倉地域に神明神社はなく、平倉地域の一部とも云える平野原には、
この神明神社と側には熊野神社があり、おそらく、分社堂掲載のものは、
ここを指すものと思われる。
さて、ウンチクはここまでとして、
田植踊りの登場
日出神社へ向かう前に、地元の神社に奉納
弘化年間(1844~1848)に仙台領黒川から兄弟が遠野に来て、兄は青笹町中沢、弟がここ平野原に
この田植踊りを教えたと云われている
日出神社まで行けない方々が、地元の郷土芸能を堪能
踊っている様子を手振りをしてみている人もいた。
大正5年と昭和9年に踊った際、どちらも不作になったことから、「ガス田植え」と呼ばれ、
中断する要因のひとつとなったようだが、近年は上郷まつりや日出神社例大祭に参加している
市内には、松崎町の横田田植え踊りと綾織町に南部田植え踊りが伝承されているが、
いずれの登場人物にも類似性があり、東北各地に残っている庭田植踊りと同じルーツと思われる。
この日も「あました やすひら」さんはすこぶる調子が良いようだった
「後、いつ、やるか、わからないので」
と、冗談とも本気とも思える話から、記念写真! 笑
この神社から望むのは鍋倉山の南側、大物見
神社を囲むように広がる田んぼも、昨夜の雨で一息ついたようだが、
「ガス田植え」と呼ばれない踊りを期待しつつ、次の奉納先、日出神社へ
今年は3年ぶりの復活で、神明神社には遠野遺産登録後初奉納となりました。
最初で最後の奉納にならなければいいのですが…
集合写真の人数をみてもわかる様にあと数年という感じです。