「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

高橋武右衛門

2020-06-29 13:31:39 | 歴史

今年も半年経過。こんなに、だらだらしたまま何カ月も過ごしたのはいつのことだったのか?

 

そんな先週、ブログ仲間のksuzさんが、canonのレンズを置いて行きました。

ヤフオクに出す前に欲しい人があれば、ほど良い価格で譲るそうです。

ばんばん稼いでいる年なら、私も絶対買うのですが、今年は・・・。

 

さて、話題は、懲りずに百専右衛門関係から、小友町鷹鳥屋

ここは旧鷹鳥屋小学校、大きな木の下に校舎が見えます。メインの登り口前

 

周囲より一段高い丘の上といった雰囲気ですが、この左奥を含め、伝説として、

阿曽沼氏の沖舘某の居た処とも、織田信長に白鷹を献上した石田宗順が居た処とも云われています。

百専右衛門の緒用留書を見ると父高橋氏の一族とは異なる?高橋武右衛門殿という人が出てきます。

文政12年(1815)の文書では遠野南部八戸弥六郎の御納戸役(鍋倉城にて)とあります。

図書館にある弥六郎支配帳を見ると武右衛門、武左衛門の名前で10石。

この高橋武右衛門さんはどんな人だろうと探していたところ、「とおの小友探訪」という本にありました。

それには、ここが江戸時代中後期、南部家臣高橋氏の居館で、武左衛門、軍蔵、・・・とあり、

昭和17年以後断絶し、分家も昭和20年後期には釜石に移り、後、小学校新築に際し、

残されていた墓石を公葬地に移転とありました。

 

その公葬地に百専右衛門関係者と行くと、書いているとおりにお墓があり、家紋は笠紋。

百専右衛門関係高橋氏の菊紋ではありません。

上閉伊郡小友村郷土教育資料には、鷹鳥屋の高橋氏として、緒立笠紋

葛西の浪士高橋民右衛門、遠野南部氏に仕え、禄20石を食み、鷹鳥屋館下に住居を定む。

後、遠野に10石を分け分家す。とあり、この民右衛門の後裔が武右衛門さんだと思われます。

現在、小友町には十数軒の高橋さんがおりますが、鷹鳥屋にはゼロ。

分家がどの家を指すのか確証は得られていませんが、安左衛門、平四郎の系統かと想像しています。

 

旧鷹鳥屋小の北東に回ると鳥居。

何年か前の鷹鳥屋まつりに来た時、鷹鳥屋獅子踊りが奉納した神社です。

先の「とおの小友探訪」には、天満大自在天神とあり、残されている棟札には

奉再興天満大自在天神神宝殿一宇成就武運長久祈願之収 所願成就祈所

願主高橋武ヱ門重房、同軍蔵重富、遷宮導師源龍院本考 寛政6年(1794)申寅年9月25日

次は、願主高橋部重富、遷宮導師源龍智観 安政5年(1858)9月25日

高橋部は幕末の家臣名簿にもあり、明治19年鷹鳥屋手習師匠高橋部死亡と小友年表にある。

とあります。

 

2010年の鷹鳥屋まつりの写真に、この神社が撮ってありました。

 

当時は、こんな処にも神社あるんだなあと思いながらの撮影

 

さらに写真データを確認すると先の棟札の一部があり、武の次が左と云う字に見えますが、

かすれながらも右という字で、高橋武右衛門です。

また、天神さんの紹介文章にある「高橋部」は、御支配帳関係名簿によると「高橋蔀(しとみ)」が正解で、

武右衛門、軍治、蔀と続き、明治時代を向かえたようです。

郷土芸能の追っかけが、思わぬところで、功を奏した感じです。笑

 

鷹鳥屋公葬地に同道頂いたお二人と次に回ったのは、百専右衛門系綾織高橋家と

同じ家紋を持つ小友町山谷の高橋さん。

このお宅は、2017年の山谷観音まつりの際、山谷獅子踊りが門掛けして歩いた家の一つでした。

わかる範囲で11代続くという家の系図を見させて頂きましたが、手掛かり無しです。

 

江戸時代の古地図

二日町と書かれている場所の右側にアラマチとある場所が現在の二日町中央部

その前の猿ケ石川に橋が架かっており、札場橋、橋を渡って右へ行くと、コシオウ(胡四王)

それを左に折れ、中央の山越えが小友峠 かつての小友・遠野のメインルートです。

峠を越え、白地の処が2ヵ所あり、古城跡で、その右のほうのが、高橋武右衛門の屋敷。

峠の小友側で、主要道が見える処にあるのが高橋武右衛門家で、

猿ケ石川の綾織側が百専右衛門の父、綾織高橋家の居た処になります。

政治的に配置されているように思えますが、どうだったんでしょう?

 

先週、家の玄関には菖蒲とヨモギ

少し前まで菖蒲湯に入っていましたが、今は昔です。

昔のことはどうでもいいじゃないか!・・・それはそうですが・・・


移動制限解除

2020-06-21 14:08:26 | 民俗

昨日は、移動制限解除ということで、下の娘の居る仙台へ

時々愛妻が張り切って食材を持っていくことなり、家にいる娘も同行となりました。

 

荷物を届けた後は、昼食

 

肉と海鮮ものの店で、私は飽きずに牛タン 笑

 

その後、女性陣はショッピング、私はフリータイムということで、行った先は、榴岡公園

30数年ぶりになりますが、全く記憶はありません。笑

 

戦時中、歩兵連隊の基地?があったということだけの知識しかありません。

 

興味深い施設でしたが、先を急ぎます。

 

目指したのは、こちら、榴岡天満宮。

何を見に行ったのかと云えば何も予備知識が無く、神社があるのを知ったから、ただそれだけ。笑

先を歩く参拝者の方々が、茅野輪くぐりをしていたので、真似して参拝です。

 

後ろの本殿を見ようとしましたが、見えません。

 

木陰で休んでいると目に入ったもの

 

佐藤助右衛門救災碑

仙台駅前から歩いてきたので、少し長めの休憩ということで、内容確認です。

古着販売から商売を始めた佐藤助右衛門さん、天保の飢饉の時代に2000両だか5600両だかの

献金を伊達藩にして、250石だか330石の大番隊士となり、天保7年には勘定奉行に。

遠野と伊達藩、流石に献金の規模が違います。

先の百専右衛門は天保9年(1838)、遠野南部弥六郎家に100両と米200駄を納め、107石取り。

その時の遠野では、百ら二人の商人を潰しても、領民を守ることが大事とされていました。

この天保年間は南部藩だけではなく、お隣り伊達藩でも大変な飢饉だったようです。

 

帰りは、自動車道北上・江釣子で降り、夕ご飯。

ところが、移動規制解除の影響かどうかわかりませんが、遠野へ帰るルート上の店は、

どこも1時間近く待たなければ入店できず、待たずに入れるこちらへ。

もんじゃ、お好み焼きの店

いくらすぐ食べられるとは言え、ビールも飲まずに、そう何枚も食べられません。

しばらく、お好み焼きは食べない!と決意しました。笑

それはそうと、百専右衛門つながりで、とらねこさんから江戸時代の遠野関連本ということで

三翁昔話を紹介され、調べると、

正保3年(1646)新田家知行減少の事に記されている人名、遠野古事記とは異なることがわかりました。

遠野古事記では高橋弥五郎、

三翁昔話では武右衛門組・安左衛門組 10石 高橋弥五助

弥五郎と弥五助、名前が異なりますが、それはそれとして、

武右衛門と安左衛門が新たに記されており、どちらも遠野南部家臣名にある高橋さん。

10石取りの高橋弥五郎(弥五助)さんが、同じ高橋の武右衛門さんと安左衛門さんの二組を

管理していたということになるのか?

また、この二組は御同心でもないので、何をやっている人たちだったのか?と興味津々。

芸能撮影無しの今年は、こんな調子で、遠野の人物史?


葬送

2020-06-17 17:51:58 | 民俗

先週末土曜日の早朝、父方の伯母が亡くなりました。92歳

その前日が故人末息子の還暦の誕生日だったので、それを待って逝ったかのようです。

 

遠野物語の聖地、土淵、遠くに見えるのは六角牛山

故人を自宅に連れ帰り、その晩は、線香を絶やさぬよう泊まりです。

翌日曜は、地域・親戚関係へお知らせして回る一員となり、

 

空き時間に家の周りを散策です。

敷地はずれには、以前の土地の持ち主に関係すると思われる墓碑群があり、

行くと、いつも気になるのが家紋 汗

丸に隅立て四つ目結紋、三星紋、花菱紋が確認でき、悪い癖で苗字を想像、

初めのは地域柄、佐々木さん、次は千葉系、最後の花菱は遠野南部氏の紋のひとつ

佐々木さんは確定だと思うものの、千葉系には他の苗字もあり、花菱となると様々な憶測もでき、不確定。

江戸後期に居た人たちの歴史を感じます。

 

近親者による納棺後の別れの盃

 

月曜日、葬祭会館に移動するにあたり、棺は茅で作った鳥居のような間をくぐって運びます。

 

後、家の中を藁とばらを混ぜた箒で祓い清め

 

通夜

 

会館泊まりとなり、

 

翌日は、出棺経の後に近親者四人の陸尺(ろくしゃく)と呼ばれる役廻りの方々が棺を運びます。

コロナの関係でマスクもしているので、相当異様に見えますが。

 

火葬

 

会館に戻って葬儀

 

菩提寺に移動し、行列を組んでお墓へ

 

納骨後、一人一人線香を手向け、

 

会場に移動し、忌明けと称する会食をして、一連の仏事の終了

コロナ禍により、この数カ月、仏事も簡略化され続けていましたが、落ち着いてきたと云うことで、

なるべく密にならないよう配慮しながら、通常に近い形での葬送となりました。

大きな会場の大勢での飲食は、正月以来かもしれません。

さて、この仏事になる数日前から我が家のボイラーが稼働停止となり、

本日やっと復旧、安心してお風呂に入れます。

本業も明日から平常業務となる予定です。汗

 

 

 


まだ百専右衛門

2020-06-10 11:58:37 | 民俗

日曜日、ついに父親が生きた年数を越えました!これで目標のひとつ達成。

そういうわけでその前日、コロナとは別に、諸般の事情により自粛していた外飲み

 

久々に気が晴れた晩になりました!笑

さて、今年の折り返し月も第二週、何もかもが停滞ムードで、お祭りも中止ばかり。

年齢や学年で今年最後の参加予定の方々はやるせないでしょうね・・・

かつて、遠野まつりの郷土芸能共演が市街地のみになった頃、我が家の娘も最後の年で、

八幡様の馬場で踊らないまま踊り卒業となり、悔しい思いをしました。

と云うことで、

今月に入っても、まだ百専右衛門(ももせんうえもん)を追っています。笑

ここで若干のおさらいということで、

専右衛門は天明3年(1783)の生まれで嘉永2年(1849)に亡くなります。

まるで飢饉の時代を駆け抜けたような人生でした。

百専右衛門って何をした人?と聞かれると決まって云うのは、

運動公園のある辺りにため池を作り、農地開発した先駆者だよと。

そこで私が気になるのが、彼の回りに居た人たちの人間模様

 

趣ある門前を通ると百専右衛門が眠っていたはずの瑞応院

 

いたはずというのも、専右衛門緒用留書にここから戒名を頂いているとあるからですが、

本人の物だと明確にわかるお墓はなく、現在あるのはその家系の方々になるようです。

百の父親は綾織の高橋氏で、母親は松田氏

綾織高橋氏は丸に十六菊紋、又は菊菱紋だということはわかりましたが、

母方の松田氏がどこの松田氏なのかが、はっきりしません。

電話帳で松田姓を調べると、現在の市街地を除くと多いのは小友、綾織の順。

小友は秀吉の奥州仕置後に浪人となった江刺家臣の松田氏と、八戸から移ってきた

遠野南部の是川氏に従ってきた松田氏がいることはわかっています。

また、現在の人数は少ない附馬牛にも当初、会津系の松田氏が知行地を持っていました。

綾織は八戸から南部氏が来る以前は不明ながら、以後は、松崎、工藤、是川、四戸、

橘、宇夫方、及川、荒屋と多くの人たちの分割知行地だったようです。

その流れで、街中に松田氏が点在。では、松田氏がどのような家紋かと云うと、

 

瑞応院にあるのは剣花菱紋

 

附馬牛では剣花菱というよりは剣花角と抱茗荷

 

綾織では剣花菱

 

小友はというと、剣花菱の他に、橘

 

二引両

 

三柏

 

木瓜

 

笹竜胆

 

なんと種類の多いことか!小友にはルーツを異にする松田さんが多いようです。

百専右衛門緒用留書他の資料から、

百の母方の松田氏は宝暦(1750年代)には新町で佐藤屋として商売をしており、

寛政8年(1795)には六日町善左衛門の酒屋を引き取り、直支配の別家を出します。

また百の父方は高橋氏で寛政3年(1791)には一日市で吉里吉里善兵衛の株を引受け、

東屋として酒屋商売をしていました。

百と弟は佐藤屋で育てられ、そこで商売の修行のした後、父方の東屋を根拠地として

商売していくことになります。

 

我が家のさつきも見ごろ 笑

文政年間(1818~1830)母方の佐藤屋は、百兄弟も働いていた六日町の酒屋を人手に渡します。

相手は及川恒箇時治、小友の外山を開発した及川一族で、三河屋という屋号で、

商売を続け、菩提寺は瑞応院。

及川も松田も高橋も一族は遠野南部氏の家臣でありながら、商売もしていたようです。

 

瑞応院の及川氏、剣花菱紋です。

小友には宝永年間(1704~1711)に長男が遠野に出て酒屋を営み、次男が家を継いだ

という言い伝えのある松田氏がいます。蔦紋

その長男の家系だと思われる紋は剣花菱。予想した結果にはなりませんでした。

但し、百専右衛門から見えてくるのは、高橋氏も松田氏も及川氏も小友町に関わりある

一族だということです。

 

瑞応院の観音堂?

一日市にあった中川原観音を移したものだと遠野町古蹟残映には記されています。