今年も半年経過。こんなに、だらだらしたまま何カ月も過ごしたのはいつのことだったのか?
そんな先週、ブログ仲間のksuzさんが、canonのレンズを置いて行きました。
ヤフオクに出す前に欲しい人があれば、ほど良い価格で譲るそうです。
ばんばん稼いでいる年なら、私も絶対買うのですが、今年は・・・。
さて、話題は、懲りずに百専右衛門関係から、小友町鷹鳥屋
ここは旧鷹鳥屋小学校、大きな木の下に校舎が見えます。メインの登り口前
周囲より一段高い丘の上といった雰囲気ですが、この左奥を含め、伝説として、
阿曽沼氏の沖舘某の居た処とも、織田信長に白鷹を献上した石田宗順が居た処とも云われています。
百専右衛門の緒用留書を見ると父高橋氏の一族とは異なる?高橋武右衛門殿という人が出てきます。
文政12年(1815)の文書では遠野南部八戸弥六郎の御納戸役(鍋倉城にて)とあります。
図書館にある弥六郎支配帳を見ると武右衛門、武左衛門の名前で10石。
この高橋武右衛門さんはどんな人だろうと探していたところ、「とおの小友探訪」という本にありました。
それには、ここが江戸時代中後期、南部家臣高橋氏の居館で、武左衛門、軍蔵、・・・とあり、
昭和17年以後断絶し、分家も昭和20年後期には釜石に移り、後、小学校新築に際し、
残されていた墓石を公葬地に移転とありました。
その公葬地に百専右衛門関係者と行くと、書いているとおりにお墓があり、家紋は笠紋。
百専右衛門関係高橋氏の菊紋ではありません。
上閉伊郡小友村郷土教育資料には、鷹鳥屋の高橋氏として、緒立笠紋
葛西の浪士高橋民右衛門、遠野南部氏に仕え、禄20石を食み、鷹鳥屋館下に住居を定む。
後、遠野に10石を分け分家す。とあり、この民右衛門の後裔が武右衛門さんだと思われます。
現在、小友町には十数軒の高橋さんがおりますが、鷹鳥屋にはゼロ。
分家がどの家を指すのか確証は得られていませんが、安左衛門、平四郎の系統かと想像しています。
旧鷹鳥屋小の北東に回ると鳥居。
何年か前の鷹鳥屋まつりに来た時、鷹鳥屋獅子踊りが奉納した神社です。
先の「とおの小友探訪」には、天満大自在天神とあり、残されている棟札には
奉再興天満大自在天神神宝殿一宇成就武運長久祈願之収 所願成就祈所
願主高橋武ヱ門重房、同軍蔵重富、遷宮導師源龍院本考 寛政6年(1794)申寅年9月25日
次は、願主高橋部重富、遷宮導師源龍智観 安政5年(1858)9月25日
高橋部は幕末の家臣名簿にもあり、明治19年鷹鳥屋手習師匠高橋部死亡と小友年表にある。
とあります。
2010年の鷹鳥屋まつりの写真に、この神社が撮ってありました。
当時は、こんな処にも神社あるんだなあと思いながらの撮影
さらに写真データを確認すると先の棟札の一部があり、武の次が左と云う字に見えますが、
かすれながらも右という字で、高橋武右衛門です。
また、天神さんの紹介文章にある「高橋部」は、御支配帳関係名簿によると「高橋蔀(しとみ)」が正解で、
武右衛門、軍治、蔀と続き、明治時代を向かえたようです。
郷土芸能の追っかけが、思わぬところで、功を奏した感じです。笑
鷹鳥屋公葬地に同道頂いたお二人と次に回ったのは、百専右衛門系綾織高橋家と
同じ家紋を持つ小友町山谷の高橋さん。
このお宅は、2017年の山谷観音まつりの際、山谷獅子踊りが門掛けして歩いた家の一つでした。
わかる範囲で11代続くという家の系図を見させて頂きましたが、手掛かり無しです。
江戸時代の古地図
二日町と書かれている場所の右側にアラマチとある場所が現在の二日町中央部
その前の猿ケ石川に橋が架かっており、札場橋、橋を渡って右へ行くと、コシオウ(胡四王)
それを左に折れ、中央の山越えが小友峠 かつての小友・遠野のメインルートです。
峠を越え、白地の処が2ヵ所あり、古城跡で、その右のほうのが、高橋武右衛門の屋敷。
峠の小友側で、主要道が見える処にあるのが高橋武右衛門家で、
猿ケ石川の綾織側が百専右衛門の父、綾織高橋家の居た処になります。
政治的に配置されているように思えますが、どうだったんでしょう?
先週、家の玄関には菖蒲とヨモギ
少し前まで菖蒲湯に入っていましたが、今は昔です。
昔のことはどうでもいいじゃないか!・・・それはそうですが・・・