「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

まだ桜咲く遠野

2018-04-26 19:20:44 | 歴史

桜が咲き始め、見ごろだったはずの昨日、おとといと雨模様だった遠野ですが、

今日は雨もあがったようなので、お昼前に所用と合わせてその様子を見に行ってきました。

 

下組町西はずれの卯子酉神社の桜

猿ケ石川・早瀬川沿いの桜も今週末まではもちそうです。

さて、本日の話題は、

関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599)に三戸から盛岡に南部氏は移り、盛岡城初代城主になるのが南部利直公。

寛永9年(1632)に重直が跡を継ぎます。(ちなみに利直の先代が信直)

遠野郷八幡宮が松崎町宮代から現在地に遷座した寛文元年(1661)、大変な出来事が起こります。

重直公は目隠しをして、侍帳に記されている藩士の氏名を無作為に墨で消し、42名を解き放しとします。

その中には遠野に関係しそうな人達も含まれていました。

堀切兵庫、大町宇右衛門、石橋新兵衛、上野久兵衛、飯豊又市、五日市左近、 他

 

猿ケ石川の桜

 

遠野古事記に、同心勤めの御用が繁多になり、追加の50人を二組に分け、御譜代御同心を小頭にして、

盛岡家中浪人、興津八郎右衛門(子供八郎右衛門の代に氏を堀切と改める)、

人首平右衛門(孫平右衛門の代に大町と改める)を御当家に召出した時に支配頭を仰せ付けられ、

新しい屋敷を割出し、これを上同心と称す。とあります。(これが上組町の始まり)

 

42名解き放しの中に堀切兵庫という人がいます。

盛岡藩参考諸家系図(以下諸家系図)には、一戸摂津守義實支流 堀切某 信直公に仕える。

息子堀切兵庫 利直公の時に家督、岩手郡堀切村に200石給う。重直公の承応2年罪有りて禄収られ、

八戸弥六郎に預けられる。後、赦免により尚八戸氏に居り、後に八戸氏願にてその家臣になる。

兵庫辞して隠居し、その子勘三郎を八戸氏に仕わしむ。 弥六郎より50石を領す。

とありますが、承応2年は寛文の誤りで、罪有りてというのは目隠し事件の事で、無実です。

 

宮守町鱒沢 猿ケ石川南岸

次に興津八郎右衛門ですが、遠野古事記の二城代制の項に江刺浪人200石の大町宇右衛門が出てきます。

同じ古事記には平右衛門と宇右衛門の二つの記述がありますが、近世こもんじょ館の盛岡藩士の名簿では

宇右衛門とあるので、興津(大町)宇右衛門が正しいようです。天正の動乱で浪人となり、隣りの江刺から

遠野へ移り、後、三戸・盛岡に移動し、また遠野へということになるようです。

 

花の命は短いと云いますが、5月の連休までは難しいかな?

三人目は石橋新兵衛について

諸家系図では 石橋新三郎 利直公の時に召出され、鹿角郡谷内村に200石を給う。慶長6年春、

岩崎の陣の時、赤袰使番を勤める。後に鹿角御境役。重直公の時、同郡槇山で初めて金を産す。

その山御境付きにより金山奉行を兼帯す。

新三郎の娘婿は八戸弥六郎内石橋兵部二男の新兵衛定次で、重直公の時家督。

孫の石橋吉武も同時期部屋住にて御小姓を勤めていたが、寛文元年祖父定次死して家督を賜らず、

御小姓を御免、浪士となる。(別に家督の後故有りて禄収られるとの説あり)

子孫八戸弥六郎家臣となりて遠野に在り。

石橋兵部が先に遠野にいて、後に新兵衛の孫吉武が同じく弥六郎家臣になるように書かれていますが、

系図上よくわからない部分もあり、本当に先が兵部で、後に吉武だったのか疑問です。

いずれ、藩の名簿では石橋新兵衛ということで、遠野に移ったきっかけは目隠し事件になるようです。

明治2年の弥六郎家臣には2名の石橋氏があります。

 

宮守町鱒沢 猿ケ石川南岸

4人目は上野久兵衛

諸家系図では阿曽沼氏後の城代を勤めた上野右近の孫に与三郎(廣易)があります。その与三郎の二男が

上野久兵衛廣定で、その息子が九右衛門廣久となり重直公の万治元年父廣定が死んだ時、幼少により

禄を収られたが、家筋を思召し、世子行信公の御小姓となる。とあります。

万治元年は寛文元年の間違いですが、目隠し事件が万治元年だったという説もあり、禄収られと云うのは

やはり、目隠し事件を指しているようです。

 

松崎町 阿曽沼公歴代の碑前

5人目は飯豊又市

近世こもんじょ館の盛岡家臣名のふりがなでは「いで」。後の時代の家臣名には無いようです。

遠野古事記に飯豊又右衛門があり、利直公の時に仕官したことがわかりますが、八戸弥六郎家臣にも

飯豊姓は見られないことから、目隠し事件後、そのまま浪人となったのでしょう。

飯豊のよみが「いで」ですが、遠野では「えんで・いんで」と云うことから生じた「いで」だと思われます。

そこで気になるのが「井手」(いで)ですが、もしかしたら「飯豊」から変化したものではないでしょうか?

元々いた飯豊から三戸・盛岡へ移動し、戻ってきてからは井手という可能性はあります。笑

 

松崎町 村兵稲荷境内

6人目は五日市左近

遠野古事記に五日市又五郎が出てきます。諸家系図には、本姓浅沼 紋五木瓜内唐花

五日市政左衛門 利直公の時に召出され300石を給う。息子又兵衛宗定、重直公の時家督。

後御者頭を勤め足軽30人を預かる。後、故有りて禄収られ浪人。妻は松田与右衛門の娘とあります。

浅沼は阿曽沼一族鱒沢氏の名のりであり、松田与右衛門が附馬牛に30石領していた八戸弥六郎家臣の

同姓同名の人物だとすれば、土淵町の五日市にいた又五郎に関係するものと思われます。

 

雨中の鍋倉山

その他に栃内門兵衛

諸家系図では江刺某の二男栃内勾當閉伊郡栃内に住して氏とする。その息子小左衛門茂廣、利直公の慶長の頃

召出され閉伊郡栃内村に100石を給う。寛永4年八戸弥六郎遠野移封の時、現米25駄を賜う。

(娘は小友に一時住んでいた松田検校に嫁ぐ)さらに息子小左衛門廣任は重直公の時家督。

後命により郡山(紫波)に移住す。とあります。門兵衛ずばりの名前はありませんが、

御命により移住の意味が目隠し事件を指すと思われます。

他にも北村金左衛門がおり、諸家系図に八戸弥六郎内北村三郎左衛門という名前が見られますが、

後の弥六郎家臣帳に北村は無いように思いますが、いずれかの書き物で、北村を見たような気もするので

後日にでも追ってみたいと思います。

さらに末崎清右衛門、近世こもんじょ館では「すえさき」とあり、遠野では「まっさき」。

清右衛門はてっきり遠野の「まっさき」だとばかり思っていましたが、どうやら違うようです。

しかし、その後の時代に盛岡家臣に末崎が見えないようなので、そのまま浪人となったか、

やはり「まっさき」となったかは不明です。

しかし、42名中に遠野関係でこれだけの人数、三日月も丸くなるまで南部領と云われる中では高確率。

到底、目隠しをして決めたとは思い難しです。笑

 

 

 

 

 

 


菩提寺総会と花見

2018-04-23 22:58:38 | 地域

例年、春の彼岸中日に行われている菩提寺の護寺会総会でした。

 

震災の年の4月に焼失し、先代住職も亡くなられ、それから護寺会役員そして同系の光明寺さんをはじめ

近隣のお寺さんのお世話になりながら、お孫さんが後継住職となり、昨年、やっと本堂・庫裏等が完成。

その報告を兼ねた総会となりました。

 

いつもは本堂隣りの会館での総会ですが、今年は本堂での開催。

議案が多かったこともあり、長丁場となりました。

細かな点での不備はあったようですが、おおむね賛同できる内容で、本来であれば、

ここまで頑張ってこられた役員さん方にご苦労様の拍手でもしなければならなかったと思います。

気持ち良く終わり、ねぎらいの気持ちをもって懇親会となるはずでしたが、

ひとつだけ残念なことが・・・

人として道義的に如何かと思うような意見もあり、思い出すだけで腹が立ってきます。

一問一答方式で進めると、どこまで行っても意見を述べた者勝ちとなる運営は好ましくないようで、

意見に対する反対意見も聴取する必要があるように感じました。最後は採決でしょうが。

 

どことなく気持ちがすっきりしないところで、同級生のお花見に参加です。

桜の花が咲いている時に外でジンギスカンにお酒

遠野人が描く最高のお花見です!笑

 

途中で記念撮影

 

昔の女子もハイ、ポーズ!

 

知恩寺の桜も満開です

 

地域内の菩提寺檀家さんの会費徴取やら案内所のある通りの会計、連休明けは別団体の会計監査と

5月連休明けには、総会・総会

本業も思うように進めない状況が続いていますが、連休まで残すところ一週間

鬼のように働きたいと思います。

ところで

前回記した遠野関連の人物にもうひとり、勝又彦右衛門

天文年中、葛西左京大夫晴信に仕え3,000石を領す。天正18年葛西氏没落の時、浪人となり花巻に潜居する。

利直公の慶長11年召し出され、元和8年遠野の内佐比内村に200石を賜う。

寛永4年八戸弥六郎移封により稗貫郡大田村矢沢村に替地を賜う。


さくら咲く

2018-04-21 20:39:54 | 歴史

4月18日辺りから遠野の町中でも桜の花が咲き始め、今日は気温が20℃を超え、久しぶりにワイシャツ一枚です。

 

大工町善明寺 開花

今回は、春の遠野画像を交えながら、江戸時代初頭前後の元和7年(1622)~寛永4年(1627)辺りの

遠野について

遠野古事記には、この頃の城下諸氏屋敷にいた人物が記されています。

 

松崎町白岩 白幡神社 開花

 

城代、毛馬内三左衛門(500石)、同じく槻舘左兵衛(500石)

葛西浪人大原新右衛門(800石)、葛西浪人浜田彦兵衛(500石)、細越与三郎(300石)、駒木隼人(300石)、

西風舘典厩(400石)、平倉平蔵(200石)、宮森助十郎(400石)、葛西浪人高屋四郎左衛門(200石)、

江刺浪人大町宇右衛門(200石)、白岩嘉兵衛(120石)、江刺浪人人首監物(初め無録)、

葛西浪人欠下茂右衛門(300石)、平野原久兵衛(50石)、木下半兵衛(100石)、伝勝寺、

五日市又五郎(30石)、栃内主計(70石)、畑中久七(100石)、沼荒次郎(100石)、本宿因幡(150石)、

中沢外記(50石)、菊池五郎太(50石余)、金新助(35石)、畑中久兵衛、菊池理兵衛(70石)、

浅沼六右衛門(40石)、飯豊又右衛門(60石)、宮沢十三郎(70石)とあります。

ここに書いていませんが、妙泉寺(135石)、東禅寺(240石)が寺領を得ていたようです。

これらの禄は阿曽沼氏からではなく、三戸南部氏から宛がわれたものです。

 

駅前 旅の蔵遠野

 

先ほどの石高を合計すると城代2人1,000石+諸氏4,695石+寺領375石=6,070石

寛永4年の八戸直栄移封時の遠野ぶんだけの石高は9,927石なので、3,857石ぶん残っています。

三戸南部氏の直接蔵入領ということも考えられますが、少なくても、それを管理する地頭のような人も必要なわけで、

その辺が気になります。

 

今日はSL銀河の営業運転初日

 

カリンちゃんもお出迎えです

 

その時代に遠野に関わりあるその他の人物を探ってみます。

1.阿曽沼忠義の人、火渡玄浄こと附馬牛中務入道玄浄の息子に附馬牛内蔵人がいます。

後に300石宛がわれ、山口村(土淵)に移り山口新助と名乗ります。

2.閉伊郡細越村内城の内城四郎左衛門吉昭(本姓菊池)の息子吉輝が50石

3.小友の新谷帯刀、阿曽沼政変に登場した平清水駿河の弟で60石

4.古事記にあった葛西浪人高屋四郎左衛門の叔父で柏山浪人下川原玄蕃恒忠も一時遠野におり、

後に花巻に移動し100石、但し、同族二名はそのまま遠野で八戸直栄の家臣

5.末崎清右衛門、阿曽沼時代には金切割の采配を許されていた重臣という文章がありますが、50石

私は気仙浪人としていち早く遠野に移ってきた人物だと考えています。

6.長瀬善太夫儀政、閉伊郡長瀬村(土淵か)に生まれ氏とする。後に相撲行司として仕える。

7.新里平蔵は大原新右衛門、末崎清右衛門、高屋四郎左衛門らと大阪冬の陣に従軍しておりますが、

この時期の事歴は不明。

8.小友喜左衛門は新里平蔵同様、同じ時代に及川氏も小友に居ながら、三戸南部家臣になった形跡無し

9.船越与三郎、土淵に150石

手持ち資料で確認できるぶんなので、その他にもいるかもしれません。

1~9までで、遠野領地ぶんとして想像できそうなのは610石(小友、下川原は除く)

まだ3265石、埋まりません。笑

 

SL銀河初日のお出迎えは、綾織しし踊りさんでした!

 

駅前の後は、とおの物語の館でひと踊りでした!

 

次に登場人物と関連ある地域を組み合わせてみます。

 附馬牛町(696石)は、妙泉寺、東禅寺の寺領の他は山口新助が移動しており、空白地。

土淵町(1279石)には、五日市又五郎、栃内主計、本宿因幡、飯豊又右衛門、宮沢十三郎、

そして船越与兵衛、大原新右衛門。

上郷町(627石)には細越与三郎、平倉平蔵、平野原久兵衛、内城冶兵衛吉輝。

小友町(591石)には新谷帯刀。(小友氏と及川氏については遠野関連として三戸南部家臣に名前がありません)

宮守町(1216石)の内、達曽部は大迫代官所管轄になるのではずします。宮森助十郎、浅沼六右衛門(?)

綾織町(1822石)は西風舘典厩、新里平蔵。

青笹町(647石)には中沢外記のみ。

松崎町及び遠野町(残り)には、浜田、駒木、高屋、大町、白岩、欠下、木下、畑中など地名や苗字等を考慮して

居たであろう人達を乱暴にも、うひとくくりにすると

小友町と青笹町そして附馬牛町が少ないようですが、金山との関係から小友町をはずすと青笹町と附馬牛町。

647石の青笹町に中沢外記ただ一人ということは無いだろうと思いますし、菊池五郎太が仮に青笹の人物

だったとしても50石なので、まだ誰かが居そうです。また以前記した会津からの松田氏のように、阿曽沼時代の

後期には客分として附馬牛に入ってきた人もおり、元家臣が先行し、後、主家がそこに仮住まいすることもありで、

様々な人が混在していたと思われます。

 

とおの物語の館で記念撮影

 

登場人物の苗字を見ると気付くかと思いますが、本姓は別にして、在住地・領地を氏として名のる人が多く、

寛永4年、八戸直栄が遠野に移ってくる頃には、その多くの人が在地苗字のまま三戸・盛岡に移動します。

南部藩参考諸家系図にある遠野関連の人達を見ていると面白いのは、その後も含め、

遠野時代に其々が、某かの婚姻関係にあり、また、遠野にも三戸・盛岡にも、其々同族が存在する

ということになるようです。

 

一日市通りの伊藤家

 

食堂部分の運営者がバイパスの「ばんがり」さんに変りました。

「おたおらでひとり食うも」と云うメニューが気になります。笑

 

店内にあった写真・・・・えずこ

子供が入っている道具のことですが、昔はどこの家にもあったかと思えば、そうでもないようで

いわゆる良い家にしか無かったそうです。

 

遠野には江戸時代から続く家が多くありますが、其々の苗字には歴史ヒストリーがあります。

南部藩参考諸家系図には多くの人が載ってあり、菊池さんや佐々木さん、阿部さん、佐藤さん以外でしたら、

南部藩家臣にある苗字を基に調べてみるのも面白いと思います。

 

 


遠野に移った葛西系の人々 其の弐

2018-04-15 22:02:24 | 歴史

昨夜は、住まいのある地域の自治会総会でした。

 

今年は役員改選期ながら、続けて自治会長になられたのは、震災で遠野を終の棲家に決められたTさん。

以下、役員が若干、交代したものの、自治会長を中心に盛り上げようという気持ちが伝わる総会となりました。

総会後は、ビール党に、日本酒党、そして焼酎党と各党入り乱れての懇親会となりましたが、

無党派の私は、三種類、ブレンド状態となり、朝まで爆睡。汗

 

我が家の猫の額には、春のバレリーナが咲き始めました。

さて、

遠野に移った葛西系の人々其の弐ということで、今回は浜田(濱田)氏

浜田姓の人物が遠野で確認できる最初はと云うと、おそらく、遠野古事記。

豊臣秀吉の天下統一以降、三戸南部氏の附庸となり、先君阿曽沼氏無き後、遠野の城代を務めていたのは

上野右近広吉ですが、その右近が亡くなった(1621)後は、三戸南部氏から派遣された毛馬内・槻舘二人の

交代制城代の時代となります。

その頃、城下諸氏屋敷に住んでいた人達の名前の中に、500石、葛西浪人、浜田彦兵衛がいます。

遠野に住んでいても、三戸南部家臣ということになります。

いつも参考にさせて頂いている近世こもんじょ館には、

濱田彦兵衛清春 葛西一族濱田安房守重正男 没落後閉伊郡に潜宿し、信直公に仕へ

七百石、大槌城代、寛永十六年卒

とあり、清春の息子は300石となり花巻へ移動し、幕末まで南部家臣として続いたようです。

 

桜が咲いたらしいということで午前中お邪魔した大工町の善明寺、花は確認できませんでしたが、秒読みです。

 

陸前高田の広田湾周辺を治め、米ケ崎城主だったのが浜田氏。

遠野にも関係ありそうな時歴を見ると、秀吉の小田原攻めから6年目の天正16年(1588)、

浜田安房守に呼び出され、世田米城の浅沼(阿曽沼)甲斐と息子の中務が討たれます。

世田米浅沼氏と遠野阿曽沼氏の血縁関係は定かでありませんが、同族だったことは苗字に現れています。

この時代、浜田氏、江刺氏、世田米氏、遠野阿曽沼一族は、其々、某かの婚姻関係にありながらも、

伊達と南部に挟まれ、どちらに組するかで揉めていた時代でもあります。

天正18年(1590)、宮城県北・岩手県南地域で葛西・大崎一揆が起こり、葛西・大崎旧臣の多くが没落。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦となり、遠野では政変により遠野を追われた阿曽沼氏が

伊達政宗の後援を受け、上郷町赤羽根、住田町平田で遠野奪還の戦いを挑みます。

その戦いに阿曽沼氏側の人物として住田町の上有住城主だった浜田喜六がいますが、ここで戦死。

喜六は浜田安房守広綱の弟だと云われています。

この時、浜田安房守広綱が、どこにいたのか確証を得る史実はありませんが、

時間は前に戻り、天正16年(1588)に浜田安房守が気仙沼方面へ進出し、主家である葛西氏に鎮圧されますが、

その時いた安房守四男清春は、後に南部氏に仕えるという文章が見られることから、

濱田彦兵衛清春が遠野に移った時代は、1588年から上野右近死後の1621年の間が、まず考えられます。

次に彦兵衛が信直に仕えたということで、信直の在任期間を見ると天正20年(1592)から慶長4年(1599)

であり、1588年~1621年を1592年~1599年に絞れ、阿曽沼氏の遠野奪還の戦い時点で、

遠野に潜宿していた可能性がありますが、その時の弟喜六との関係がわかりません。

 

松崎町光興寺にある阿曽沼氏歴代の碑周辺は例年、桜と芝桜がきれいに咲きます。今はまだ咲かず。

鎌倉時代から江戸時代直前まで続いた阿曽沼氏歴代の墓碑、その多くがどこにあったのか、

菩提寺がどこだったのか謎です。

濱田彦兵衛清春の由緒では父親は広綱ではなく重正で、どちらも安房守ですが、

重正に関する文献が見当たらないのが気になります。はたして、広綱の四男だったのか、

広綱の兄弟重正の子だったのか・・・。

確実なのは、八戸直栄・清心尼公が移封される寛永4年(1627)以前の慶長18年(1613)には既に

大槌代官としての仕事をしており、禄の多さといい相応の人物だったと思われます。

遠野古事記では、その在住時代、彦兵衛は南舘に住む大原新右衛門の次に記され、

居住地名が空白となっていますが、その書き方を見ると大原氏と同じ南舘に居た可能性があります。

南舘は鍋倉本丸の南側を意味するのでしょうか・・・

 

阿曽沼旧臣、葛西旧臣が天正・慶長の波乱の時代駆け抜け、八戸から移ってきた遠野南部家臣もまた、

幕末以降に、激動の時代を歩み、その末裔は先祖同様に新たな場所を求め移動、

また関係子孫としての苗字を名のり、ここにいる者もあり、といった具合でしょうか。笑

彦兵衛が遠野に居た時代はそれほど長くはありませんが、その間、知行地としていた場所を縁として、

同姓としたと考えるのは如何でしょうか。 


遠野の桜は秒読み?

2018-04-14 17:35:51 | 歴史

4月もあっという間に中旬

 

昨日は釜石市中心部と大槌町との間にある鵜住居町へ

 

昨年あたりから順次、嵩上げ工事が完了した場所では、住宅が建設されていますが、

この日は遠野に嫁ぐ娘さんのところに仮住まいしていた方の地鎮祭でした。

先立たれた奥さんの眠る菩提寺そばで余生を送る決断をしたようです。

 

先週あたりから咲き始めた釜石の桜も天気次第では、数日で満開になるのでは?

一方、遠野はと云うと、新張にある某タイヤ商会さんの桜が一輪咲いたということなので、

気温が上れば、あちらこちらで開花宣言すると思います。

 

さて、

 

先日、発行されたばかりの遠野南部家御用留書を手に入れ、古本屋さんからは定本附馬牛村誌を、

と云う事で、本業に勤しみながらも、頭の一部では空想の世界を徘徊。

 

お不動さん

 

そんな折、拙案内所に顔を出してくれた「さごみの木」さんが、気になることを教えてくれました。

昔、附馬牛に白山神社があったと。

早速、定本附馬牛村誌を確かめると、張山にあり、白山妙理大権現と号し、創立年代不明。

文化14年(1817)に修復(松田氏、導師意楽院)した棟札が残っている。

文政11年(1828)の棟札には、大旦那南部彌六郎源義堯、小檀那松田忠左衛門とある。

また、同書には寛永9年(1632)の家臣分限帳からということで、附馬牛に宛がわれていた20人の中に、

30石、松田与右衛門とあり、八戸南部氏移封当初から松田氏が管理していた処だと考えられます。

 

この白山、手持ちの地図には確かに鳥居のマークがありましたが、現地を確認すると鳥居は無く、

周辺には二つ上の写真のお不動さんと、上の写真のお稲荷さんかお不動さんと思われるものだけ。

その辺りの家々を訪ねるも、不在で、あきらめかけた時、トラクターで作業中の第一村人発見!

田んぼまで駈けて行き、事の次第を話すと第二村人を紹介され、

 

その方曰く、昔はこの辺りに白山と八幡の二社があったが、今は何も残っていないとのこと。

棟札の松田氏の話をすると、そのおじいさん、「うちも松田だ!」笑

附馬牛町に居る松田さんを意識したことはありませんでしたが、確かにこの地域には数軒の松田さん。

神社を管理していた本家筋の松田さんは遠野の町に引き払ってしまったようで、そのまた本家については

全くわからないということでした。

 

近所の家にあった絵馬、今残っている神社に納めるには大きすぎると思い、かつてあった白山の大きさを見ると

拝殿が二間に一間半ということで、もしかすると、その白山か隣接した八幡にあったものかもしれません。

ところで、ここに登場した松田忠左衛門と与右衛門さんが気になります。笑

八戸南部氏が遠野に移封される前の家臣名を見ると松田姓はただ一人、松田雅樂之丞です。

手持ちの寛永11年支配帳では松田雅樂30石、横田村、片岸村とありますが、

定本附馬牛村誌にある寛永9年には、雅樂の他に与右衛門がいたことになります。

どちらも30石とあることから、同一人物かもしれませんし、知行地の村名が違うことから二名かもしれません。

阿曽沼興廃記や遠野古事記には、松田雅樂の他、鱒沢氏関連で紫波からの松田氏が見えます。

その他、江刺氏一族の松田検校が一時小友に潜居しますが、後に京都に移動しています。

石高から考えると雅樂関係の松田氏ではと想像しています。

しかし、

よその人の事ばかり調べていないで自分のところも調べろよと思う方もいるかもしれませんね。汗

我が家の人物家系図は既に作成済なので、ご安心下さい。笑

それでも、ひとつ気になるのは、馬の糞とも云われるほど居る我が家の笛吹姓(仮名)、 

明治になった時、その地域の和尚さんが地域ごとに同じ姓を名付けたという話も聞きますが、 

先祖は江戸時代から〇〇町居住で、この〇〇町で笛吹姓を名のる家は、同町別集落に多く、

なぜ、ひとつの家だけが、名のったのかと・・・。

この馬の糞と云われる笛吹姓、秀吉の奥州仕置以後に、江刺方面から移動してきた方々が

確認できますが、仕置以前の阿曽沼氏の旧臣にも本姓笛吹を名のる人物も見られ、

一概に江刺方面から全員が移動してきたとも思われず・・・。

また、阿曽沼氏の代官として、最初に宇夫方氏と高屋氏が来たという伝承がありますが、

その高屋氏は後の歴史にしばらく現れず、やはり、奥州仕置以後に江刺浪人として遠野に出てきます。

これらのことを合わせ考えると、藤原(阿曽沼)秀親所領の中にある、

一、陸奥国遠野保地頭職事

一、同国江刺郡内角懸郷半分地頭職事

に、関係するのではないかと、またまた妄想しているこの頃です。笑

さあ、今晩は居住する地域の自治会総会なので、ガス抜きを兼ねて懇親会まで参戦です。汗

 その後

南部藩参考諸家系図にて、松田氏を確認しました。

盛岡南部藩士に松田儀勇太家があります。その系図を見ると、

会津にて蒲生氏郷に仕えていた松田与兵衛を初代とし、二代目松田与左衛門の時、初めて遠野附馬牛村に来て住す。

八戸弥六郎客分となり30石を領す。三代目松田与右衛門(与兵衛)、重直公の時召し出される。

この三代目の兄弟姉妹のうち、娘三人は、遠野に縁ある五日市又兵衛、八戸弥六郎家臣外川兵作、平原庄兵衛の妻に

なり、また弟、松田久兵衛は八戸弥六郎家臣となり100石を領す。とあります。

松田雅樂は八戸から、そして松田与右衛門は会津からと、同時期に全く異なったルートから

二人の松田さんが遠野に入ってきたことがわかりました。