「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2019 総集編後編

2019-12-30 12:13:16 | 地域

今年も明日で終わりですね。昨夜は遠野ブログ関係の仲間たちとの忘年会、

そして、本日の午前中で現業も完全休業、正月の空き時間は経理庶務。

 

その昨夜、6時スタートの前から乾杯!乾杯!で最終的に11名

 

いつものように二次会へ行き、今年最後のカツ丼で〆となりました。汗

それでは、文字数を気にしつつ、総集編後編です。

 

7月は小友町の山谷観音まつりからスタートし、鱒沢鞍迫観音・白山例祭、

そして、恒例の大出早池峰神社宵宮・例祭となり、

 

後半は塚沢神楽さんの夜神楽

 

8月は恒例になりつつある?時々愛妻と連れだっての盛岡さんさ踊りを見学し、

 

お盆前にやって来た従弟と新しい家族に会い、お盆にはお寺で別な従弟家族にも遭遇?

時間が取れたら、また来てね!

舟っこ流しに上宮守愛宕神社例祭、小友まつり等をいつものように回り、

 

9月は仙台に収監されていた?姫猫さんの慰問の帰りに花巻まつりを観て、

 

遠野まつりに突入となり、続けて六神石神社例祭、砥森神社例祭

 

10月に入ると、久慈へ行った翌日に、田野畑村で菅窪鹿踊を見て、

 

20日には三陸町で郷土芸能を観た後、釜石まつりへとハシゴ

 

後半には気仙民俗芸能祭で、仙台の上谷刈鹿踊

 

11月は今年始められた小友町の長野まつりで、長野獅子踊りさんの雌獅子狂いを堪能

 

12月は流石に郷土芸能は少なくなり、江刺稲瀬芸能フェスへ

と云う事で、前半同様に郷土芸能見て歩きとなり、思いのほかあちらこちらをほっつき歩いた年となりました。笑

 

さて、来年はとなると、景気下降が確実と云われており、かなり、しっかりと本業に取り組まなければ

大変なことになりそうな予感

また本業関係の某県大会の主管が遠野だということと、区切りの歳となる大同級会も控えており、

今年のようには出歩けないと覚悟はしております。

と、決意表明?をして総集編後編の終わりです。笑


2019 総集編前編

2019-12-29 11:56:06 | 地域

昨日は、と書いただけで文字数が10文字にカウントされて、その昨日は編集画面で30000文字を越えているので

それ以下にしなさいとの文章が出てきて投稿できませんでした。

実際の文字数は当然、そんなにあるはずも無いのに・・・・gooブログさん、いつからこうなったの?

長文に有利なブログの良さが無くなります。

と云う事で、短く総集編

 

1月は、北上市の綾内神楽さんの春祈祷に遭遇

 

そして、住田町の奇祭 水しぎ

 

2月は、花巻市の円万寺系神楽さんの初舞いにお邪魔しました。

 

3月は水沢の羽田火防祭にて遠野市の綾織南部ばやしにも伝わる剣ばやしを見学

 

そして、今年は宮古市の黒森神楽さんの遠野郷八幡宮巡業

 

4月は陸前高田市の横田梯子虎舞いを見学

 

奥州市水沢の日高火防祭

 

5月の連休前半には塩釜・岩沼・亘理・相馬へ

 

住田町の世田米式年祭へも

 

6月は名古屋・伊勢への旅行

 

そして、宮古市小国の神楽共演会

 

と云うことで、今年前半は市外に出かけることが多い年となりました。

(これで8908文字カウント・・・納得いかないなあ・・・)


2019 総集編前編のつもりが

2019-12-28 18:29:52 | 地域

2019年も残すところ、29、30、31日と三日。

昨日で仕事納めになった時々愛妻が、今朝は水光園に行くとおっしゃっていたので、

気になっていた本業関係の進捗状況確認ついでに花巻まで私のお供をお願いし、

 

午前中は、こちらにて日帰り入浴を楽しんできました。汗

筋肉痛ではないのに一年悩まされている両肩、神経痛にも良いという効能を期待です。

と云う事で、今年の総集編へ

のつもりが、「本文30000以下にしてください」という文章が入り、それ以下しかない文章・画像を削除。泣!

 

しかたがないので、連絡事項だけ

今では化石化しつつある遠野関係ブロガーと仲間たちの忘年会は、

明日29日(日)午後6時頃(フライング有り)から、上から読んでも下から読んでものお店で。

もう一つ、

同級生新年会は、正月2日午後3時から(フライング無し)、同級生夫婦のお店で。

いずれも持ち込み料が発生しますが、飲ませたい・食べさせたいもの持参は大歓迎です! 

 

年の瀬は気持ち良くと思っていましたが、踏んだり蹴ったりになりそうです・・・大泣


2019 師走 現実逃避

2019-12-22 17:26:55 | 郷土芸能

2019年の師走も後半、

年内に処理したい庶務に負われ、目の前の本業には目を向けたくない日々が続いています。

 

そんな20日(金)、今は無い元の職場の忘年会

所長を含め総勢4名、全員参加で乾杯!

 

恒例になってきた其々の家族と健康がメインテーマながら、楽しい時間を過ごし、

 

あまり嗜まない3名の視線を気にしつつ、飲んだことのない銘柄も数種類頂き、上機嫌での帰宅となりました。

これで、年末まで何とかもうひと踏ん張りできそうです。笑

さて、今年も残すは2019総集編と+アルファになりそうなところで、その前に、

いつもの郷土芸能・伝承芸能から、今回は太神楽です。汗

 

太神楽(大神楽)は熱田・伊勢両神宮の代わりにお札配り・祈祷をしながら其々の信仰圏を廻る

代わりの神楽(代神楽)として伝えられたものですが、これか江戸に出てくるようになったのは、

江戸時代の寛文4年(1664)から延宝2年(1674)のことで、後に江戸に定着する太神楽が

熱田派・伊勢派其々の組合組織として享保から延享年間(1716~1748)に成立します。

この両派に次いで有名な水戸大神楽は、宝暦2年(1752)に水戸東照宮祭礼に供奉したのが始まりと云われています。

 

岩手に目を向けると、

江戸時代の南部藩では七軒丁という芸能集団が藩内を巡行していたことが知られています。

七軒丁の頭、御駒大夫の先祖は甲斐の国から三戸に南部氏が移る際、殿様のお召馬の口取りをして従い、

後にお召馬の駒形の写しを奉った蒼前駒形神社の別当となり、その門前にあった七軒の者たちと

芸能に携わったことから七軒丁と呼ばれる芸能集団となり、藩内諸芸を取り仕切る役割を担います。

盛岡藩家老日誌「雑書」に七軒丁が記される最初は元禄5年(1692)2月15日で老中屋敷で狂言を演じた

とあり、春田打ちも行い、操り芝居、軽業芝居等の興業も行うようになりますが、太神楽という記述は見当たりません。

文化年間(1804~1818)御駒大夫は配下の4、5人と、藩の用人の共をし、江戸で芸を磨き、

帰郷してからは抜群に上手になり、正月には三河万歳、松の内・冬至・除夜には獅子舞を出したとあります。

文政10年(1827)蒼前駒形明神のお宮修復の為、藩の許可を得て、七軒丁は駒形明神の信仰の勧めと

寄付を募るための勧化文を携え、藩内を巡ります。

この時の勧化文が青森県の目名神楽会に残されているようです。

 

次に遠野太神楽に目を向けます。

寛永4年(1627)八戸根城南部氏が遠野へ領地替えとなった後、店屋与平治という者が妻と幼子を連れて八戸から移り、

家屋敷を貰い、八戸南部氏の鍋倉城に出入りし、家々の家内・厩祈祷をして歩いたと遠野古事記にあり、

後には他郷の同類の者たちを雇い、春田打ち、万歳、砂鉢廻しなどをします。

 

明和3年(1766)7月の神明八幡祭礼、9月八幡祭礼に太神楽が出ているこことが検断勤方記にあります。

それには太神楽の道具として

大神楽胴(胴はお宮・お堂の事だと思われます)一つ、但し屋根障子等は胴に内に入れ置く

綱幕一つ、上水引一つ、獅子一つ幕共に、おかめ面一つ被り共に、太鼓一つ(同綱巻一つ上帯共に)

小太鼓一つ、鼓一つ、鈴臺一つ鈴共に、右の通りに御座候

これには笛と手平鉦が記されていません。おそらく自前だったのでは?

 

天明8年(1788)、一日市の傳兵衛が先年上方筋で獅子舞を習い玉川傳兵衛という名を貰ってきたので、

太神楽の奉行として帯刀を許可されています。

その4年後の祭礼では裏町の店屋与平治が申付けられて、盛岡・花巻の店屋共を呼び

太神楽を勤めていることから、傳兵衛は直接太神楽を演じていたのかどうかはわかりません。

少なくても町の若者たちに太神楽を習得させようとしたものの、上手く行かなかったということのようです。

時代は流れ、明治には裏町で演じられていた太神楽が大工町の若者たちへ引き継がれ、

現在に至るということになります。

 

綾織町山口太神楽

盛岡と遠野を比べると七軒丁が江戸で芸を磨いてきた時期より以前に遠野で太神楽が演じられていたように

文献上は確認できますが、事実は、当然、遠野が早いということはありえません。

 

宮守町米田大神楽

おそらく、江戸に太神楽が定着した享保から延享年間(1716~1748)以後、七軒丁が芸を磨いた

文化年間(1804~1818)の間には既に、七軒丁や店屋によって初期の太神楽が南部藩内には

広められていたものと推察しています。

 

釜石市 南部藩壽松院年行司支配大神楽

 

八戸根城から遠野に八戸南部氏が移った後の37年後の寛文4年(1664)に南部藩から分離独立した八戸藩の

勘定所日記、用人日記には、元禄8年(1695)正月、毎年のご祝儀に春田打ち罷り上る

とあり、演じていたのは典屋頭松太夫で、漢字が遠野の「店屋」と異なりますが、同業だったと思われ、

八戸藩成立後まもなく盛岡から移ってきたとのことです。

 

伊勢内宮

今から300年ほども前に伊勢・熱田から伝えられた芸能が、今も江戸から遙か遠い岩手にあります。

年越しをして、正月になるとなぜかしら景気のいい獅子舞のお囃子が聞こえてくるという

イメージが先行している現実逃避真っ最中の笛吹です。笑


江刺民俗芸能フェスティバル2019

2019-12-04 11:53:33 | 郷土芸能

11月最後の金曜日は、来年予定されている高校時代の同級会の打ち合わせ会でした。

2020年11月1日(日)花巻温泉で一泊。

10年前に開催した時と同様に今後、進められていくことと思います。

さて、

今年も、とうとう12月に突入です。生で観られる郷土芸能話題も最後。(たぶん、おそらく、きっと・・・笑)

 

タイトルのとおり、場所は奥州市江刺区

奥州市は県内で最大の米どころ、遠野市の6倍近くの収穫量になるようです。

今回お邪魔したのは稲瀬地区センターの体育館。

 

3年前に続き2回目の見学となるこのイベント、トップは稲瀬小学校金津流鶴羽衣鹿踊さん

文字通り、小学生が演じました。

 

次に、大谷さんさ踊りさん

さんさ踊りの南限は大東町で、その次がこのさんさになるとの説明でした。

大正初期に現在の北上市稲瀬町の方から教わったのが始まりとのこと。

太鼓の方は輪踊りの中心に座り二人で叩き、笛と唄は輪の外側で踊り無しというスタイルでした。

 

その次は、三照太鼓さんでしたが、子供たちが多く参加しており、写真は無しです。

その時間を利用して、販売していた味噌おにぎりと豚汁を頂き、登場したのは金津流伊手獅子躍さん

 

「獅子」の字を使用するのは太鼓系では金津流が多いのでしょうか?

演目は礼庭、ちなみに稲瀬小の演目も同じでした。

 

そして、この日のゲスト、遠野市の飯豊神楽さん、御神楽(みかぐら)

少子高齢化・人口減少の中、飯豊神楽さんは、遠野市内で初めて女性の舞い手を許し、

現在は地域外から参加している人が多い神楽ということで、江刺の芸能のあり方の参考になると、

実行委員長?さんが、挨拶で述べていました。

 

奥山行山流増沢鹿踊さん

文政10年(1827)に伊手村二渡から伝えられたとのこと。

 

礼庭

 

小川原流和田神楽さん

幕の中央から扇子を出して始まりました。

 

三番叟

後から道化が出てきて、木製のいちもつを扱う所作が印象的でした。笑

 

再登場の飯豊神楽さん

飯豊さんは御神楽の後、続けて舞うつもりの人数構成で来たようで、大所帯。

 

演目は木曽舞

 

木曽義仲の妻である巴御前とその妹たちによる舞いの後、戦いとなり、旅の僧に妹たちの供養を頼み、

 

最後は出演者一同にて舞い納め

飯豊神楽さんらしい演目でした!

 

最後は金津流野手崎獅子躍さん

 

演目は雌獅子隠し

 

野手崎は昭和46年に金津流梁川獅子躍さんに入門して、同56年に相伝され、

平成23年に現在の名称に改めたということのようです。

 

老若男女が参加する遠野のしし踊りでは、新たに踊り組ができるということは考えられません。

それだけ、太鼓系しし踊りが愛されている証なのかもしれませんね!

江刺には、しし、剣舞、神楽など遠野以上に多くの伝承芸能が残っている地域という印象ですが、

今回は剣舞が無く、神楽も一団体のみということで、少しだけ残念でした。

出来れば、各団体が出演する其々の例祭等の情報がネットに上がればと思いながら、

釜石自動車道にて帰宅。

 

今朝は雪で、最高気温も一桁下方との予報

まだまだ年内にやらなければならない作業山積み、体調管理をしっかりして、乗りきりたいと思います。