19日の日出神社例祭で、板澤しし踊りさんから次の出番はしばらく無いと聞いており、
また某所にて飯豊神楽さんは神事での打ち鳴らしだけとの情報を得ていた日枝神社例祭。
昨日がその例祭でした。
郷土芸能の奉納が無いなら・・・と考えていたところ、拙案内所付近で選挙関係の街頭PRが
あるらしいとのことから、急遽、その場を脱出。
遠野小学校東側の日枝神社です。
子どもの頃は、大日さんと呼んでいました。
慶安5年(1652)に山王の祠がこの地に建てられ、貞享2年(1685)に湯殿山の分霊を勧請し、
大日堂と称することから、親しみを込めて「大日さん」。
明治に大日堂が廃止され、山王に因み日枝神社と改称。
時間前に拝殿内を見学。前回の訪問時同様に、この写真に目がいき、
神事終了後、居合わせた方々に聴取。
どうやら故浦田穂一氏の写真で、氏の住まいがあった昭和通りで写したものとのこと。
現在奉納されている権現様とは違う物だと思われますが、昭和の時代までは、
権現様を抱えて町中を廻っていたようです。
当時の事を実際に知っている人には、まだ出会っていません。
但し、今回、八幡様から、この権現様を抱えている人が誰だか教えて頂くことができました。
昔話ですら、聞いたことのない大日さんの神楽です。
神事
情報どおりに飯豊神楽さんの打ち鳴らし
しばし、境内散策です。笑
明治初期に写された地図
現在の遠野小学校には左から東善寺、妙泉寺、善応寺が並び、右側の鳥居マークが
現在の日枝神社(通称:大日さん)
東善寺は、附馬牛にあり、後に盛岡に移った東禅寺でなく、
八戸から遠野南部氏が領地替えになった際、共に移された東善寺です。
妙泉寺は附馬牛、善応寺は青笹。
境内には天満宮、消防追悼碑、愛犬乃碑などがあり、今回引き寄せられたのは子護稲荷社
脇の説明文には、旧是川屋敷内にあった稲荷社で、市民センター建設前にあった
旧遠野小学校建設により、子供たちを守ることを念じて移設されたとのこと。
元の場所はと地図を見ると、真ん中の工藤紀内の北側に是川卯右エ門とある場所です。
八戸時代からの是川氏は、明治に武藤と改姓。
明治末期の「遠野案内」には、荒廃した日枝神社の様子が書かれており、
大正12年4月の漫画新聞白龍には、鍋倉神社例祭が5月の2,3日に変更となったお知らせ。
時のまつりごとによる人心の変化を感じることができます。
今だに新コロの影響を受けている市内の例祭にて・・・。
さあ、今月末は、下の娘の引っ越し仕舞、仙台から東京へ!