名梨さんから、教えて頂いた志和稲荷神社と遠野のこと。(紫波町の志和稲荷のあるところが、升沢で、宮司様が鱒沢氏であること。遠野市宮守町下鱒沢に縁があること)地図を見ると確かに一里塚がある辺りは、宮本という地名で、これが、一里塚に隣接する駒形神社に由来するものなのか、志和稲荷に由来するものなのかはわからないが、いつものように、勝手に空想してしまう。
志和稲荷神社には、遠野でお馴染みの「うんなんさん」が祭神のひとつとして祭られているようで、これまた、縁を感じさせられる。また、由緒には、源義家が社殿を再興し、南部氏まで時の支配者に保護されてきたことがわかる。さて、鱒沢氏との関わりだが、この辺のことは、師匠であるとらねこ隊長殿が何か情報をお持ちでは?ということで追求しないこととして・・・。
一里塚隣の駒形神社だが、この駒形なる神社も当地方でよく耳にする神社だが、馬産地だったから多いのだろうか?先日、記した盛岡七軒丁の頭取は、今の地名でいうところの仙北町の駒形神社別当であり、先祖は、甲斐から、南部氏の馬の口取として同行してきたという。まだ、よく調べていないが、駒形神社は南部氏に縁のある神社だとすると、鱒沢氏が遠野に居た頃にあった神社は宇迦神社で、後に南部氏縁の駒形神社に変わったなんてことはないよね?(追求しないと言ったのに・・・それに名梨さんを前にして・・・)
志和稲荷神社には、遠野でお馴染みの「うんなんさん」が祭神のひとつとして祭られているようで、これまた、縁を感じさせられる。また、由緒には、源義家が社殿を再興し、南部氏まで時の支配者に保護されてきたことがわかる。さて、鱒沢氏との関わりだが、この辺のことは、師匠であるとらねこ隊長殿が何か情報をお持ちでは?ということで追求しないこととして・・・。
一里塚隣の駒形神社だが、この駒形なる神社も当地方でよく耳にする神社だが、馬産地だったから多いのだろうか?先日、記した盛岡七軒丁の頭取は、今の地名でいうところの仙北町の駒形神社別当であり、先祖は、甲斐から、南部氏の馬の口取として同行してきたという。まだ、よく調べていないが、駒形神社は南部氏に縁のある神社だとすると、鱒沢氏が遠野に居た頃にあった神社は宇迦神社で、後に南部氏縁の駒形神社に変わったなんてことはないよね?(追求しないと言ったのに・・・それに名梨さんを前にして・・・)
毎度、難解で通好みのエントリー、楽しみでもあり興味深い内容なので調べ甲斐もありますが、今回はお手上げ・・(毎回ですが)
まず、迷岡の本宮、宮本と記述ありますが、地元では本宮だったと思いますが、仔細は不明・・。
志和稲荷が遠野南部家の飛び地だったのは初耳ですが、幕末の頃は遠野南部家から3石余りを知行田としていただいているようですから、近くに飛び地があったかもしれません(佐比内と彦部が紫波郡の飛び地)。
鱒沢氏との関連は不明・・・確かに升沢という地名なようですし名梨さんの仰せのように鱒沢姓の方が宮司さんでしたら何かしら遠野の鱒沢は関連があるかもしれませんね。
一説には鱒沢左馬助広勝の正室だったか母親は斯波氏の出とか・・・鱒沢氏(浅沼氏)没落後の広勝の妻や母親のことは語り継がれておりませんので、斯波氏が滅んだ後とはいえ、紫波郡内へ帰ったかもしれませんね・・・推測
清心尼時代に鱒沢氏、上野氏、平清水氏の三家の復興がなされたようです。
上野氏は南部本藩の直臣に取り立てられ、平清水氏も新谷氏を名乗って小友新谷番所勤務、鱒沢氏は左馬助広勝の異母弟が中斎に隠遁生活をしていたものを召しだして鱒沢氏の墓守として復活させたとありますが、多田氏を名乗ったとか、鱒沢の多田姓はその末裔か縁の人たちであろうか・・・。
以前宮守勤務時代に何かの集まりで古老の方が話されてましたが、鱒沢氏は浅沼、達曽部氏は多田、宮守氏は菊池というように宮守の苗字、何かしら縁のある家々であると仰せでした。