戸草については、もう少し時間をかけて調べてみたいと思う。(楽しみがひとつ増えた)本日は、小沢鹿込八幡神社。この神社の南東にとらねこさん紹介の宮森館がある。宮守村誌によると、その宮森氏に縁のある神社であることがわかる。この神社の南数百mのところに豊受神社があるが、こちらはどのようなイワレがあるのだろうか?
また、この地域には「鹿込鹿子踊」が伝承されている。明治の初め、小友町長野から習得したものとのこと。幕の文字は八幡社ではないか?宮守にはもうひとつ幕踊系の「鱒沢獅子踊り」がある。こちらは江戸初期に踊られたことが文献にあるが、現在伝承されているものと同一のものなのかどうかは不明である。それと達曽部の「行山流湧水鹿踊」慶応2年に家にあった鹿踊の道具を用いて佐々木多郎と友人2人が踊ったという。後、明治30年頃に江刺・梁川の鹿踊りより指導を受け今日に至る。
この中で興味をもっているのが、宮守の三大勢力であった鱒沢氏、宮森氏、達曾部氏のそれぞれの地域にわかれていることと(鹿込は明治ではあるが)、なぜ、一番奥の達曽部地域に行山流が伝承されてきたのかということ。紫波周辺と遠野は幕踊系が伝わるのにぽつんと1ヶ所だけに。行山流を踊る人々が集団で達曽部に移動してきたからか?もともと、遠野郷の踊りも行山流系統のものだったのが、南部系統の幕踊に変化したのか?
また、この地域には「鹿込鹿子踊」が伝承されている。明治の初め、小友町長野から習得したものとのこと。幕の文字は八幡社ではないか?宮守にはもうひとつ幕踊系の「鱒沢獅子踊り」がある。こちらは江戸初期に踊られたことが文献にあるが、現在伝承されているものと同一のものなのかどうかは不明である。それと達曽部の「行山流湧水鹿踊」慶応2年に家にあった鹿踊の道具を用いて佐々木多郎と友人2人が踊ったという。後、明治30年頃に江刺・梁川の鹿踊りより指導を受け今日に至る。
この中で興味をもっているのが、宮守の三大勢力であった鱒沢氏、宮森氏、達曾部氏のそれぞれの地域にわかれていることと(鹿込は明治ではあるが)、なぜ、一番奥の達曽部地域に行山流が伝承されてきたのかということ。紫波周辺と遠野は幕踊系が伝わるのにぽつんと1ヶ所だけに。行山流を踊る人々が集団で達曽部に移動してきたからか?もともと、遠野郷の踊りも行山流系統のものだったのが、南部系統の幕踊に変化したのか?