国道283号線を青笹方面から新しい釜石道へ向うと、猫川と早瀬川との間に、山を切り開いて出来た道を通過するが、その右側にこの神社が見える。
一般住宅の敷地にあり、道路から見ると稲荷さんにしては、ちょっと大きい建物なので、目にとまりやすい。
いつか、この建物の内部が見たいと思っていたのだが、側を通りかかった時、ちょうど、その家の人が外で作業をしていた。
ストーブの薪にする木を加工中
私、笛吹と言いますが・・・・・と理由を話し、見せて頂くことに。
燃やし物の煙が正面画像を拒む
こちらは、屋号を「本宮」といい、この神社は本宮八幡。かつては、茅葺屋根であったという。おそらく、同じ上郷にある駒形神社と似たような建物であったと想像する。
中には、石像としし踊りの装束が納められている。
この「しし」は、踊り用ではなく、ここに納めるためにしつらえた展示用で、現在のご主人(別当)が普請したもの。
戦時中は、他と同様に様々な祈願に来る人たちが絶えなかったという。それを裏付けるように、石像の傍には、戦時中の年月日の入った何枚かの祈願札がある。以前、ここには、巻物があったらしいが、ここに寝泊りしていた浮浪者が持っていったようだとのこと。何が書かれていたのかはわからないと云う。
一枚だけある棟札。
日中戦争の時の再建
菊池さん密集地帯らしく、関係者全員が菊池姓
石像は八幡神。嘉永2年、施主 大寺 ○○○ 判読できず
大寺は平倉観音下の地域で、嘉永2年は、その前後に三閉伊の一揆が起こっており、穏やかな時代とは云い難い。石像が平倉観音ではなく、この本宮八幡に奉納したところに意味がありそうである。
横道に逸れるが、「大寺」なる地名については、その名のとおり、かつて大きな寺があったのだろうと伝えられているが、その寺が何と言う名前のものだったのかはわからないようだ。平倉観音を指すとの推論もあるが。また、その地域の隣りは地名「舘下」で、寺と舘との関連を想像させられる。
また、平倉・平野原周辺で興味深いのは、菩提寺を平倉の曹洞宗曹源寺・細越の曹洞宗慶雲寺、そして、青笹の真宗大谷派萬通寺、大工町の真宗大谷派萬福寺と分かれていること。
遠野では、ひとつの地域にお寺さんが二つある所も珍しくないのだが、この地域には曹源寺がありながら、これほどまでに分かれていることにこの地域の特殊性が伺えられる。
大寺を中心としてまとまっていた地域が、何かの理由によって、その菩提寺がなくなり、地域に住まいする人たちの大規模な移動や真宗の布教活動の成果もあって、現在のような構成となっているように思える。
それが、阿曽沼氏から盛岡南部、そして、八戸南部氏と領主の交代する時期と関係するのではないかと想像たくましくしているところである。
いつもの「御領分社堂」には、平倉村 八幡 俗別当 助十郎 とある。
「本宮」という屋号・・・・・そして、八幡
代々、この神社をまもってきた家にふさわしい名前。
そもそも、八幡神をこの地に遷座したのは、なぜなのだろう?
この家の先祖は何者だったのだろう?
平倉観音を挟んで隣の山野は菊池姓平倉氏の刃金館、菊池一族縁の何か謂れがありそうですが、切掛氏の事績は不明です。
我家も宮が付く屋号、社とか修験に関連するといったところでおそらくこちらの別当さんとは無関係だと思いますが、身近に感じられます・・・笑
以前も言いましたが
ここの集落・区の姓は殆どが菊池。
お互い屋号で呼び合っているとはいえ、
本宮が、深い史実のお宅とは露知らず。。
そーいえば、平倉のあっち、こっちの二箇所をおっとうから聞いて
笛吹さんに報告する宿題を思い出しました(冷汗)
まあ、あてにしないでお待ちください
気になっているのです
そして、誰かに聞こうと思っていても中々機会もなく
傳勝寺ではながったのが、とワダグジこそ想像たくましくしてるどごです
枯れ枯れの季節になったら雪の前に行こうとおもてますた
あの何かの碑がありそうなとこです
市内の菊池姓濃密度地域は、小友・青笹・上郷・旧松崎・綾織、部分的濃密度集落が、飯豊・柏崎・東禅寺となっているようで、しし踊り伝承地域に大体合うのですが、例外が上郷の平倉となり、なぜだか理由がわかりません。また、郷土芸能全般でも、平倉だけは、古くから伝わるというものがないのが不思議です。
阿曽沼氏が伊達の力を借りて遠野奪還の戦いをしたことと何か関係するのか、地元の有力者がそこから消えてしまったものなのか、いつも?と感じています。
「テンポナシの苗」・・・・「テンポ無しの笛」と読み間違えました。笑
この神社へ行ってみて八幡さまだと理解したところですが、家に戻て手持ち資料を見ると確かにそう書かれており、あらら~と思った次第です。
二箇所とは、どこでしょうか?
ご実家の西側山際にも二箇所ほど、社を確認していますが、管理者から直接お話を聞いておりません。
「めんどくせがらねで」歩かなければなりませんね!
傳勝寺のお話、以前にもされておりましたが、出典の元に何でしょう?
あの何かの碑がありそうな処の他に、近所の某市議会議員さんのお宅に接している東側山頂も何かあった場所だと思っているのですが、とらねこさん得意の舘なのかなあ?