またまた、「たっそべ」から
達曽部宿の中ごろに石の鳥居がある。そして、この先の山上には八幡様が鎮座。
例の本には、八幡社、三間四方かやぶき、俗別当利兵衛とある。本殿が三間四方とは当時(宝暦)としても大きな神社である。(一間=1.82mまたは1.91m)
神社へ行くこの道の左側には、達曽部館跡があり、館及び達曽部氏についてはこちらを参照。
この神社も遠野遺産に認定されていた。(遠野遺産は、認定されたから特別な扱いを受けるわけではないが、地域の人達が大切にしたいと思っている宝物のようなもので、後世に伝えたい気持ちの表れでもある)
ご多分にもれず、ここもかなりの山の上。石段によくいるクネクネしたものがいないか注意しながら登る。
意外に広い境内には、神馬を祀る建物などもあり、かつての村社としての風格がある。
八幡神社本殿の右にあるのは、護国神社。
「遠野の神々」によると、阿曽沼孫三郎広長の家臣多田孫左衛門が慶長13年(1608)5月15日に豊前国宇佐八幡宮の分霊を祀り、同年5月25日に社を建立。とある。
また、「宮守風土記」には、慶長13年3月に達曽部弥兵衛が建立した。とある。
多田氏が阿曽沼の家臣としてこの地に来たのであれば、創建はもっとさかのぼるものと思われるのだが、慶長13年の創建としているのは、その年が盛岡南部氏である南部利直による確実な支配地になったことを意味するのではなかろうか。
ここに来る途中で見つけたもの。
木製箱ソリ。
達曽部宿の中ごろに石の鳥居がある。そして、この先の山上には八幡様が鎮座。
例の本には、八幡社、三間四方かやぶき、俗別当利兵衛とある。本殿が三間四方とは当時(宝暦)としても大きな神社である。(一間=1.82mまたは1.91m)
神社へ行くこの道の左側には、達曽部館跡があり、館及び達曽部氏についてはこちらを参照。
この神社も遠野遺産に認定されていた。(遠野遺産は、認定されたから特別な扱いを受けるわけではないが、地域の人達が大切にしたいと思っている宝物のようなもので、後世に伝えたい気持ちの表れでもある)
ご多分にもれず、ここもかなりの山の上。石段によくいるクネクネしたものがいないか注意しながら登る。
意外に広い境内には、神馬を祀る建物などもあり、かつての村社としての風格がある。
八幡神社本殿の右にあるのは、護国神社。
「遠野の神々」によると、阿曽沼孫三郎広長の家臣多田孫左衛門が慶長13年(1608)5月15日に豊前国宇佐八幡宮の分霊を祀り、同年5月25日に社を建立。とある。
また、「宮守風土記」には、慶長13年3月に達曽部弥兵衛が建立した。とある。
多田氏が阿曽沼の家臣としてこの地に来たのであれば、創建はもっとさかのぼるものと思われるのだが、慶長13年の創建としているのは、その年が盛岡南部氏である南部利直による確実な支配地になったことを意味するのではなかろうか。
ここに来る途中で見つけたもの。
木製箱ソリ。
先日、虎猫さんが高額納税者の一覧表UPしてらったすぺ、その中のオイラのご先祖の明治の戸籍に 「寺 善勝寺、神社 達曽部八幡」とあったのです。
すぐ向かいに小沢八幡があるのですが、なじぇ達曽部だったのか。
というわけで一度行ってみたかったのス(笑
ご先祖の信仰されていた神社が川向ではなく、達曽部?・・・・難しいですね!現在地に移る前に達曽部にわらじを脱いだとか、小沢八幡は、明治に至るまで、個人の神社であったとか、川向とは仲が悪かったとか・・・・
想像がふくらみますね。後は、ご自身で!笑
オラホも先月行って来ました(車)で。しばらくぶりだったので入り口を忘れてしまい行ったり来たりしてやっと見つけました。
で、拝殿脇に置かれていた鬼瓦に遠野郷八幡宮の社紋が入ったのが有りました。多分瓦屋さんのサービスだったのでしょう。
最初、鳥居から歩いて行き、車を取りに戻り、学校の駐車場に車を置いて、いざ、出陣という順番でした。階段は、かなり、しんどかったです。
下の瓦は気づきませんでしたが、拝殿には向い鳩の瓦が確認できました。遠野郷のまつりに参加している限り、ここの例大祭は見れないのかなあと思いながら、見学しました。