崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

植民地時代の映像には植民地が反映されていない

2013年11月23日 04時58分06秒 | エッセイ
昨日は朝から北村皆雄氏、韓国からの高光敏氏、李恵燕氏と打ちあわせ、会場にはぎりぎり到着し、「関係席」で宮本瑞夫先生、内田順子氏、岡田一男氏など久し振り懐かしく再会、新しい出会い、会は内田氏司会で始まった。大学などで行う講演や学会の発表とは違って劇場で演技をするような雰囲気、懐かしく親しい顔の笠原政治(横浜国立大学名誉教授)氏が有名な俳優のように見えた。宮本馨太郎が1937年3月26日から2週間で撮った「パイワン族の採訪記録」(47分)を解説した。民具調査に物作り過程などが映像で良く撮られていた。観光化による生産、再演して撮ったのが分かる。海軍省製作の「海の生命線」に映る南洋文化との共通文化が理解できた。服装など私が調査した中国の南部の少数民族のチアン族とも似ていると感じた。笠原氏は日本統治時代の貴重な動画資料であるがその時代性(日本人)が現れない。
 続いて大塚和義(大阪学院大学)氏が登壇した。彼は学生時代に私の本を読んだと挨拶をしてくれた。 宮本馨太郎が1938年8月10~31日に撮った「オロッコ・ギリヤークの生活」(18分)を解説、上映された。日本の樺太少数民族の政策により作られた「オタスの杜」など私はサハリン調査の地域経路が多く楽しく鑑賞した。特に私が訪れたオタスの杜の元風景が印象的であった。トナカイ飼育のオロッコ民族村を思いだした。
 共通点が多かった。物作りの紐が台湾では麻、樺太では柳の根と説明されたが、韓国では葛の蔓の繊維が使われた。木上葬は朝鮮半島でもあったものであり、明日私が総合して講演するつもりである。上の二作には撮影者の宮本氏と日本植民地が現れない。植民地時代の植民地が反映されていないこと、もう一つのプロパガンダのように感じた。明と暗の作られた映像であろう。写真(左から北村、笠原、私、宮本)は食堂で中国、北朝鮮などでの撮影の困難さと、台湾の民主化などについて、雑談のように語ったが重要な話が交わされた。