崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

無爲徒食

2013年11月08日 03時56分55秒 | エッセイ
 32年ぶりに会う旧同僚が韓国から訪ねてきた。彼の老人像を想像しながら駅で迎えた。半分ほど痩せたように感じた。手ぶらで来た。彼は8年前に定年、年金生活をしている。テレビや新聞など一切世間の情報を持っていないという。病院に通うこと以外に社会と人間関係全てを切って隠遁生活をしているというその人が訪ねてきたのは珍しい。彼は日本酒を飲みながら酒の味を本当に知っている大家のようにとっくりの持ち方を自慢のように語り、日本酒は美味しい言う。韓国の酒は美味しくない、政治は悪い、大統領の名前を並べて韓国は大統領の運に恵まれていない。特に朴槿惠大統領の「スカート大統領」には多くの不満を言った。今の最悪と言われる日韓関係について日本研究者としての識見を求めると「悪くても良くも自分とは全く関係がない」。自分が生存中、年金が出ればそれでよいという。
 私は彼と別れた1982年に時点を設定して記憶を起こして懐かしき友人などの名前を上げた。彼はその後の情報はほぼない。私は大学の研究所などを案内してもその一つにも視線を当てることはない。ただ「酒がおいしい」を繰り返した。私が話すことはほぼなかった。彼は人生60、その以後は「余生」であり、ただ生きることだといった。定年退職してから生きる一つのパターン、「無爲徒食型」として見た。仕事から完全に解放されてただ一つ、健康と病気との闘いがすべてである。人は老後に誰しもこのようになって行くのであろうか。最近FBの友達がバートランド・ラッセルの「働きながら死にたい」という文を紹介していたのを思いだす。それは無爲徒食型と相反する生き方である。
 彼と駅での「また会いましょう」の別離の挨拶は告別の挨拶のように感じた。