活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

自我について3

2018年10月31日 | 仏教

修行の要点は、「現実の問題を自分の問題として取り組んで生活していくこと」です。


「目覚める」と「目醒める」と両方ありますが、「心の眼を醒まして下さい」という

意味ではほんらいは「目醒める」の方が適切な表現だと思います。


物心が付く頃に、相対的認識が芽生えてきます。

それが「自我」の始まりです。


しかし、そういう「自我」が発達するのも「法の働き」なのです。

「自我そのもの」は実体のないものです。


「実体がないもの」ということは、おシャカ様が初めて気付かれたのです。


自我について2

2018年10月30日 | 仏教

世界の多くの宗教をいわれるものは、縫い目結び目のある宗教です。

「神と人」との結び目、「仏と人」との結び目、「自然と人」との結び目等々です。


しかし、本来そういうものがあってはいけないのです。


そういうものがあるべきはずのものではないことを認識してもらいたいのです。


わざわざ縫い目を付けて、結び合わせようとする心の働きを「自我」といっています。

人類で初めて「自我」を捨て去った人がおシャカ様なのです。


自我について1

2018年10月29日 | 仏教

私たち衆生は、自分は生まれた時からもうすでに「太郎」とか「花子」という

名前が付いているように考えています。


しかし、「太郎」とか「花子」という名前は後から付けられた自分の「象徴」

すぎません。


生まれた時のことを知(識)らない自分と、いつの間にか「太郎」とか「花子」と

名前を付けれられている自分を自分だと思っている自分との「二人三脚の生活」を

送っているのです。


その「象徴」にすぎない「太郎」とか「花子」を認める心の働きを「自我」といいます。


真の仏とは2

2018年10月28日 | 仏教

ですから、「なるほど、もともとそうであった」と自覚することが

私たち衆生の「修行の目標」であり「目的」でないといけない訳です。


別の言い方をすれば、ひとりひとりが、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ

ゆいがどくそん)」という「今現在 真の仏(そういう人)」であることに気付くために

修行に精進している訳です。


真の仏とは1

2018年10月27日 | 仏教

私たち衆生の仏道の修行というのは、「仏に成る修行」です。

 

「真の仏」というのは「無余無欠(余っているところもなければ、欠けている

ところもない)」ということです。


即ち「今の私たち衆生の様子」です。


修行するとかしないにかかわらず「今の自分のそのままの有様」を無余無欠と

いっています。


正しい発心とは2

2018年10月26日 | 

ですから、そのためには「自己を忘るるなり」ということなのです。


「見聞覚知(けんもんかくち)」する今の自分、これを認めて「これが自分だ」

というふうに考える。それは大変な間違いなのです。


それを、「おシャカ様の教え、歴代の覚者の教えに因って忘れなさい」と

いっているのです。


そういうふうに自分で発心しなければいけないのです。



正しい発心とは1

2018年10月25日 | 

「発心(ほっしん)正しからざれば、万行(まんぎょう)空しく施す」という

道元禅師のお言葉があります。


道元禅師のお言葉を拝借すれば「正しい発心」とは、

「仏道をならふというは、自己をならふなり」ということです。


その「自己」とは何かというと、無自性 無我(どこにも自分というものを

認めることが出来ないものである、自分というものは本来ないんだ)」

ということです。


そしてそのことを知(識)ることです。


それに向かって「日日(にちにち)の生活」をする、それを「正しい発心」

というのです。


乾坤只一人(けんこんただひとり)2

2018年10月24日 | 仏教

人間(にんげん)の体を見ても分かるように「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」

というのは全部「差別(しゃべつ)のまま」なのです。


私たち衆生は、あたかも一つのものが分かれているように思っていますが

そうではなくて「全部(ひとつひとつ)」が完全な働きをもっているのです。


しかも、人の手を加えてそのように成ったものではないのです。

こんなに素晴らしいものが私たち衆生の体なのです。


ですから、自分自身を細かく分けていっても残るものはありません。

小さいものは大きいものに一つに成るということです。


一つほど親しいものはありません。


乾坤只一人(けんこんただひとり)1

2018年10月23日 | 仏教

時間というのは、遠い昔も今も同じで久遠(くおん)ということです。


時間を越えた世界のことを「無辺」といいます。


一番の本(もと)というのは、昔から毛筋ほども動いていないということです。

動いていないものが「大きな働き」です。


もし、少しでも動くものがあったら、それは「人の見解(けんげ)」が入っている

ということです。


別の言葉で言えば「人の介在がある」と理解しなければいけません。


「無辺」そういう大きなものですから、「見性した」とか「悟りを開いた」

というような収まる場所がないということです。


禅語で言えば「乾坤只一人」ということです。


「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」もこれに当てはまります。


正覚2

2018年10月22日 | 仏教

「正覚」とは私たち衆生の誰もが具有している「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」

という機能の働きそのままなのです。


おシャカ様の悟られた当体なのです。


しかし、人は長ずるに従ってあたかも「六根の働き」が物事を分別する道具で

あるかのような誤った考えを持つようになることから、苦悩や迷いが生じるのです。


おシャカ様は様々な試行錯誤の結果、そのことを「自覚」されたのです。


その自覚が膨大な教えとなって今日まで伝わっているのです。