活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

御身1

2020年11月30日 | 坐禅

「御身(おんみ)」を大切にして頂きたく思います。

 

「大切にする」ということは、「坐禅をして無自性を徹見する事」以外にありません。

 

それは何の為にするのかというと、「天地と我と同根、万物(ばんもつ)と我と一体の者(事)であった」という事に気が付く為に「御身を大切」にして頂きたいのです。


仏道における坐禅

2020年11月29日 | 坐禅

「仏道における坐禅」というのは、原因も結果もすっかり無くなり、「仏法僧という三宝(さんぼう)」即ち、仏も無ければ、法も無ければ、僧も無ければ、道も無い、すっかり無くなった「今の状態(今の事実)」を言っているわけです。

 

ですから、そういうものが「私たち衆生には既に具わっている」と言っているわけですから、それをはっきり「信決定(しんけつじょう)」して、そして「おシャカ様が言われること、歴代の覚者が言われる事は“ウソ”ではなかった」ということを実證する必要があると思います。

 

禅は「単を示す」と書きます。

 

「ひたすらに坐る」それだけです。

 

そういう坐禅をして頂きたいと思います。


功夫は功夫なり2

2020年11月27日 | 坐禅

数を数える「数息観(すうそくかん)」でもそうです。

 

一つ、二つと数えて十まで順序正しく数えられるようになることが目的ではありません。

 

「ひとぉーつ」と言った時に自分自身が「ずぶ」と落ちないといけないのです。

 

落ちないから「ふたぁーつ」としなければならないのです。

 

そういうことを、よく「理(理論)」として十分承知しておいた上で、坐に親しんで頂きたいと思います。


功夫は功夫なり1

2020年11月26日 | 坐禅

おシャカ様は「煩悩即菩提」と言われました。

 

「煩悩の外に菩提はありませんよ」という意味です。

 

それなのにいつの間にか私たち衆生は、坐るという事を、出口を見つけ出す、迷いから悟りに移行する、そういう手段や方法にしてしまっているという事です。

 

吐く息、吸う息の功夫をする「随息観(ずいそくかん)」は「私が功夫する」のではありません。

 

「功夫その物に成る」という事です。


瞑想と坐禅

2020年11月25日 | 坐禅

「瞑想に耽(ふけ)る」というお言葉がありますが、「瞑想」というのはとめどもなく湧き出てくる心の葛藤を静かに坐って自分自身の心で摂(おさ)めていく修行です。

 

つまり最初から、心(心意識)という物(事)を認めて息を止めたり、食べ物を絶ったりして、非常に苦しんで、悟りとか解脱の心境に成る行を「瞑想」といっています。

 

「瞑想と坐禅の違い」は、「坐禅」というのは「心の葛藤そのもの」に成り切ることです。

 

「瞑想」というのは、自分がありながら「もう一人の自分」が葛藤を起こす「自分の様子を認めている(知っている)」のです。

 

したがって「心(心意識)」が何時も自分と離れた処にあるという事です。


動中の禅2

2020年11月24日 | 

そういう時にペンを持ち、諸々の考えをしている事、「それ自体が禅」なのです。

 

ですから「その中に禅というような事を取り入れてはいけない」という事です。

 

「静中の禅」が「動中の禅」の変わったという事だけですから、「法」とか「禅」という物(事)が何処かに行ってしまったというのではありません。

 

それをお忘れにならないように「動中の禅」を相続して行って頂きたいと思います。


動中の禅1

2020年11月23日 | 

白隠禅師は「道中の禅は静中(じょうちゅう)の禅に勝ること百千万億倍」と、この様に表現して居られます。

 

如何しても「静かに坐る坐禅(静中の禅)」という、そういう穴蔵の中に入ってしまって身動きが取れないというような事が間間あります。

 

その反対に「動中の禅」ですと、流されるという事があったとしても、比較的「禅」という物(事)の執着から離れ易いというそういう事があります。

 

 


2020年11月22日 | 

「坐禅」を一応手段、方法として、万(ばん)止むを得ず使うことはあります。

それは「法(道)そのもの」に到達する方便として使う場合です。

 

手段、方法ですから「途中のものです」。

 

あくまでも途中のものとして、そういうものがあっても差し支えないという事です。

何も無ければ、何も分からないからです。

 

手段、方法というものは、自由に一人歩き出来るまでの「杖」の様なものなのです。

 

「本当に坐れた時」とは「坐(ざ)が無くなった時」です。

形ある物を消滅させていかなければいけないという事です。

 

これを「法(道)を求める」と言っています。

 

「禅」は私たち衆生の「今の事実(状態)」です。

その他に特殊な物事はありません。


安心とは

2020年11月21日 | 

「自己の正体」を見極めたら、固より迷いや不安や不自由であったということなど、あるべきはずがないという事がはっきり自覚されるのです。

 

これを「安心(仏教では”あんじん”と読みます)を得た」と言うのです。

 

もし安心(あんじん)を得た以前に不安などの材料があって、修行に因ってそういうものが消滅したというのならそれは間違いです。

 

「只(ただ)とか安心(あんじん)」という状態は「修行以前のもの」です。

 

もし修行しなければ安心(あんじん)が得られないというのならば、「只(ただ)とか安心(あんじん)」という言葉は出て来ません。