有名な道元禅師の歌です。
絶対に「道」を誤るということはないのです。
来た道は、来た道です。
往った道は、往った道なのです。
多くの人が「観念の誤り」として、何かを標準にしてそうしなければ
本当の事が分からないのではないかと思っているのです。
「事実」はそうではありません。
標準を持たなくても、或いは標準無しにでも、私たち衆生は間違いなく
生活は出来るのです。
否、「出来ているのです」
有名な道元禅師の歌です。
絶対に「道」を誤るということはないのです。
来た道は、来た道です。
往った道は、往った道なのです。
多くの人が「観念の誤り」として、何かを標準にしてそうしなければ
本当の事が分からないのではないかと思っているのです。
「事実」はそうではありません。
標準を持たなくても、或いは標準無しにでも、私たち衆生は間違いなく
生活は出来るのです。
否、「出来ているのです」
始めは自分で怒っていたのです。
ところが、怒っていると思っていても実際には「怒り」はもう無いのです。
影を追って無いものを有(在)ると思っているだけなのです。
このように相手にしていくと、問題が起きるのですけど、相手にさえしなければ
問題はないのです。
「此の物」は「不思議な作用」をするのです。
其れを誰も知(識)らずにいるのです。
一般の宗教というのは、みんな自分を捨てさせておいて、何処かへ
人間(にんげん)を頼らせようとするものです。
宗教以外のあらゆる教えというものも、何処かへ連れて行って、其の間だけ
どうにか其の苦痛を和らぐようにする範囲のものなのではないでしょうか。
「仏教」は違います。
仏教というものは、その「苦痛の真っ只中」にいて、その「真っ只中のまま」で
其の苦痛から離れ、遠ざかる「道」なのです。
何も特別な事をするのではないのです。
人間(にんげん)の「怒り」で説明すれば、「怒り」というようなものが出て来ても
其れがそれなりに、其のままであれば(怒り其の物に一切手を加えなければ)、
一体誰が怒っているのか分からなくなるように成るのです。
仏教においては、「実相は無相である、一切が空である」と説かれています。
これは自ら「実証」しないうちは、一つの「仮定」のようなものです。
一般社会では、「事実は有(在)る」と仮定します。
問題は、「事実が有(在)る、無い」という認識内容にあるのではなく
認識を起こしている者、即ち、自分自身に有(在)るのです。
自分が本当に「道(法)そのもの、事実そのもの」に成ることによって
仏教の究極が「今の自己の様子そのものである」ということを
「本当にそうだ」とうなずくことが出来るのです。
このことを「此(箇)事 ”このじ”」といいます。
「此一大事」の略です。
これより初めて「無所悟無所得の修行」が行われなければなりません。
例えば「道(法)を求める人」に「仮りに方便を使った」としても
「方便を使う人」によっては、それが「仮り」ではありません。
「事実」を示しているのです。
分からない人には、このよう示していかなければなりません。
しかし、「分からない人には」といっても「方便を使う人」が分からなければ
「方便自体」が間違いに成ってしまい、私たち衆生を間違った方向に導くことに
なってしまいます。
ですから、余程注意しないといけないということです。
古人曰く、
「邪人正法を説けば、正法 邪となり、正人邪法を説けば、邪法 正法となる」と。
究極を唱える人が分かっていて、「無所悟無所得の修行」を唱えれば
衆生教化には役立ちます。
もし、究極がわかっていなくて「無所悟無所得の修行」を唱えたら
一体どうなるのでしょうか。
究極が分かっていて「無所悟無所得、手段、方法、方便」を唱えるというならば
「起承転結」がはっきりしています。
しかし、究極が分からなくて「方便、方法、手段」を唱えても「究極(本当の処)」
に私たち衆生を連れて行ってあげることは出来ないと思います。
これは大きな間違いで「毫釐(ごうり)も差(しゃ)あれば天地懸(はるか)に隔(ヘだた)る」
ということにもなりかねないということです。
「結果」からいえば確かにその通りで不要のことです。
不要なことではありますけれども、「不要だということ」を本当に
自分のものにするには「坐禅」を修して「確証(実証)を得る必要」があるのです。
そして、その「結果」というのは、「無所悟無所得の道」にかなうものになる
訳です。
別の言い方をすれば、何かの手段や方法を弄して、分からないことが分かった
ということは間違いです。
しかし、分からないことを、分からないことと分かった時、それが本当に分かった
ということです。
おシャカ様や歴代の覚者といわれる方々は色々な方便や手段や方法を使われて、
一生涯私たち衆生のために自らは犠牲となられて「衆生教化(しゅじょうきょうけ)」
に当たられたのです。
「無所悟無所得の修行」とは、修行に悟るものや、得るものがあっては
ならないというお示しです。
「結果」から言えば確かにその通りです。
その通りですけれども、それには必ず「無所悟無所得の確証(実証)を
得る修行」がなくてはならないはずです。
そこで初めて一体何を掴んでいいのか、何を放さなくてはならないのか
ということが明確に分かる訳です。
ですから、それからでないと真の「無所悟無所得の修行」は出来る訳が
ないのです。
「祇(只)管打坐や公案功夫」をしなければならないということも
「無所悟無所得」から言えば本当は不要のことなのです。
「修行の様子」として「今、気が付きました」と言われる方が時々居られますが
それは、過ぎてしまったことを気が付いている訳です。
それから、「不安があるので安心したい」という人がおられます。
しかし、「不安が無くなれば安心も無くなる」ということを知(識)らないといけません。
「片方の対象が無くなればもう片方の対象も無くならなければならない」ということは
当然のことなのですけれども、どうしても「安心だけを求める人」が多いと思います。
ですから、「悩みが有(在)るから悟りたい」といわれても、悩みが無くなれば
悟りも無くならなければいけない訳です。
「無くなった無くなった」ということで無いものを執拗につかんでいては
いけない訳です。
ですから、そういうふうにならないように注意して「サラサラ」と流れていって
欲しいと思います。
「如是の法」というのは誰がつくったものでもありません。
自分という中心になるものが有(在)って、働かせているものが
別に有(在)るという考えに成り易いのが人の働きです。
「自然法爾(じねん ほうに)」というお言葉がありますが、もともと
「そういう働き(六根)だけが集まって今此処に在るということなのです。
そのことを禅語では「天真にして妙なり」といいます。
しかし、これは「体験の世界」ということではありません。
「天真にして妙なり」とは、人の知恵に因ってつくり出したものではない
ということを、よく知(識)って頂きたく思います。
別の言葉で言えば、「人間(にんげん)の認識する以前の森羅万象の様子」
をいっているのです。
即ち「今の事実」です。