活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅の話1

2020年12月31日 | 坐禅

おシャカ様はお経を講ずる前に必ず「坐禅」をしたものです。

 

「法華経」を講ずるまえに「無思議処三昧に入る」というのは即ち「坐禅」のことです。

 

話をする前に「坐禅」をするということは、いわゆる「仏教の通義」です。

 

「坐禅」という物(事)は、誰でも行えます。相手もいりません。

 

「坐禅の力(意義)が分かれば如何しても坐禅を行じなければならないのです。

 

今日、修養機関が沢山あるにもかかわらず、一向に修養の目的が達し得られません。

 

「大道廃れて、仁義起こる」。

 

修養機関が沢山あることは喜ばしいことではありますが、一面には悲しむべきことです。


坐禅を志す人へ6

2020年12月30日 | 坐禅

「心地無相」というお示しがあります。

 

「心地無相」という事は、私たち衆生は本来生まれる以前から、知らず識らずに既に出来上がっているのが「生活の真相」です。

 

私たち衆生が「知(識)らないうち」に物と一つに成り、そして「知(識)らないうち」にそれから離れていくのです。

 

ですから一つに成ったのも、離れたのも、何も「知(識)らない」のですが、それが実際に行われているから「この物」の活動という事があるのです。

 

このことを「不知不識生(ふちふしきしょう)」と私は提示しています。

 

不尽


坐禅を志す人へ5

2020年12月29日 | 坐禅

それでは人間( にんげん)はどの様にしたら良いのかという事が起きて来るかもしれませんが、ともかくそういう一切、法(道)に対する人の考えという物も、世間に対する人の教えという物も一切止めてみれば何も問題は無い」のです。

 

「平生でも実際は誰もが事実はそういう生活をしている」のです。

 

しかし、「自我心(心意識)」というものが、中心になっている為にどうしてもそうはいかないのです。


坐禅を志す人へ4

2020年12月28日 | 坐禅

「実証」というのは「今、ある」のです。

「既に」です。

 

しかし、人の「心意識」がそれを妨げているのです。

 

人の思量に関係なく「この物(生活)がある」のです。

 

それを後から思うから、色々な問題が起きてくるのです。

 

「坐禅をする」ということは「一切の物事を、無条件でそのまま受け入れて何ともない人に成る事」です。

それが「坐禅の本質」です。

 

そうなるには、今までの考えというような物から離れなければなりません。

 

人間(にんげん)が自分という所の物(事)を中心にしているから、それで「相手(諸縁)」という事が出て来るのです。

 

そういう事を止めてしまうのです。

 

自分も捨てるのですから、相手も何も問題は無いはずです。

 

「学ぶ物がある(法・道・悟り・等々)」のも、問題にするのはつまらない事です。


坐禅を志す人へ3

2020年12月27日 | 坐禅

坐禅を志す人は「無念無相」に成る事です。

 

「無念無相」とは、思いを問題にしないで、思う事を捨てておく(取り上げない)事です。

 

そうすると、全体にすべての作用という物(事)は、私たち衆生の考えているようなそうした観念的な物事ではなくて、「本質的無我な物」である事が分かります。

 

「本質的に自由な物」であり、この無我なる自分を因として、物と物ながらに決まりの無い者(事)同士が「縁」に触れ合う処から、一切の事は始まるのです。


坐禅を志す人へ2

2020年12月26日 | 坐禅

それですから「私」というところの者(事)は、あるのではないのです。

 

「私が聞いている」という事は無いのです。

 

「只(ただ)聞こえている」のです。

 

「この物(身体)は自分を離れた活動者」なのです。

 

そのように自分の全ての物を親しく観ると、それがはっきりします。

 

そこですべての迷いが取れるのです。

 

当然、「坐禅をする」という事が必要になるのです。


坐禅を志す人へ1

2020年12月25日 | 坐禅

「坐禅を志す人」は、今まで色々な事を問題にしていたと思います。

 

そして、そういうものを皆無くしてしまうのだ、と思っていると思います。

 

「修行」というと、大抵そんなことを考えていると思います。

 

ですから「無念無相」などという「木石(ぼくせき)」の如く成る事、と思うのです。

 

「無念無相」というのは、そういう有り様ではありません。

 

内からも外からも、何があっても、「全ての物事は、あるがままの存在」で人間(にんげん)の為にあるのではないのです。

 

「只その物の活動」なのです。

 

この身体も精神作用も、私たち衆生の考えている様な「私が」と思う自分の為に存在しているのではないのです。

 

その作用を「無念無相」というのです。

 

「私」という「錯覚」を起こして知らず識らずに、「私が」と思い込んで迷っているのです。

 

これを「顛倒夢想(てんどうむそう)」と言っています。

 

しかしながら、実は聞こうと思ったから聞こえるのではなく「人と環境(六根と六境)」との必然性なのです。


坐禅の要心2

2020年12月24日 | 坐禅

「坐禅の時間」はどんな事情があろうとも、仕事のことは一切忘れて坐禅三昧に成る、そのような態度で坐って頂きたく思います。

 

いわゆる仕事の時を「動中の禅」、静かに坐る禅を「静中(じょうちゅう)の禅」と言っています。

 

そのように、「両方(動中、静中)の禅」がかみ合っていくと、仕事の面においても、坐禅の面においても、非常に「境涯」が進むことは確実に自身に「自覚」できるものです。


坐禅の要心1

2020年12月23日 | 坐禅

皆さん、それぞれに自分の仕事を持っている方ばかりと思います。

 

ですから、「仕事と禅」というものが離れてしまっては本当ではありません。

 

「仕事そのものが禅そのもの」ですから、自分の仕事の他に「禅」という距離(隔て)を認めてはいけないのです。

「禅(坐禅、修行)らしい事を一切忘れてしまって、本当に自分の仕事に打ち込む、その事に三昧に成る、それだけで良いのです。

 

それから今度は、仕事が終わったら一日に一回必ず「坐禅の時間」を作ることです。


坐禅の意義3

2020年12月22日 | 坐禅

「今の事実(今の自己の様子)」を徹底して、「そのまま(その事)」を親切に自分の事として、受け止めていくのです。

 

そうすると必ず「実証」という物が出来ます。

 

「禅」というのは、私たち衆生の日常生活「その物(事実その物)」を言っている訳です。

 

ですから、そうしていく以外は人が安心(あんじん)するような事は絶対に出来ません。