活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

霊魂とは何か3

2018年11月30日 | 仏教

おシャカ様の教えでいう「輪廻」ということでも、間違えると

「一つの中心となるもの(霊魂)」があって、それが「縁」に因って様々な状態に

変わっていく、といいます。


けれども、そうではないのです。

全体が変わってしまうということです。


「霊魂(心)」だけが残って、それが変わるというのではなくて、全部が変わっていく

ということにならないと、おシャカ様の説かれた「法」ではないのです。


 


霊魂とは何か2

2018年11月29日 | 仏教

おシャカ様の教え以外の他の宗教には、「縁」という思想がありません。


例えば、人が亡くなったということは、「縁」に従って状態が移り変わって行った

ということなのです。

これを「無常」といっています。


「縁」に因って自由に変化していく、そういうものですから「霊(れい)」といっています。

〈呉音では「りょう」と読みます〉


「霊」とは「不可思議」という意味です。

「不可思議」とは、人の考えやものの見方では理解できないことをいいます。


「霊」とは限りないものだと解釈しないと、間違います。

限りないものですから、何にでも変化するのです。



霊魂とは何か1

2018年11月28日 | 仏教

無常、無我、無相を説くおシャカ様の教えを考え方とか、ものの見方と理解すると

人の不思議な行動(働き)や思想(考え)の根源に「霊魂(心)」という存在があって、

人を支配しているような「錯覚」を起こします。


おシャカ様の説かれた「縁起の法」を「霊魂(心)の存在」と誤解されている人が

多いと思います。


人は「縁」に因って、どんなものにでも移り変わることが出来る為に、そのように

人は考えてしまうのです。


行き着くところ2

2018年11月27日 | 法理

何故、私たち衆生は「今の自分」をうけがえないのでしょうか。


おシャカ様は何故こんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と

いわれたのでしょうか。


これは、あらゆる人が「人人(にんにん)の分上豊かにそなわれり、といえども

いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。


ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって

必ずそのことが現われてくるということです。


やらなければ出来ません、歩みを進めていかなければ「行き着くところ」に

到達できないということになるのです。


行き着くところ1

2018年11月26日 | 法理

本当に自信を持って「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」

ということはなかなか言えるものではありません。


「出発はしたけれども、どこに終着点があるのか」ということです。


終着点とはどこかというと、「今の自分」です。

今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたり。


そこしか「行き着くところ」はないのです。


それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。

グジュグジュしている、それしかないのですから、そこに行き着く他はありません。


終着

2018年11月25日 | 法理

せっかく「志」を起こして修行に精進していても、その方向が間違っていれば

どこまでいっても「終着」というのは来ません。


「終着とは自分自身のこと」なのです。


しかし、「法」とか「道」とか言われると、何か遠いところに「終着」がある様な

気がするものです。


しかし、そういうものであってはならないということを「法の理」として、よく

理解しておいて下さい。


スタート即ゴール

2018年11月24日 | 法理

修行と言うのは、「私は今、修行を始めました」と思うとゴールに至らなければ

いけない、そういう「運動」のような関係ではありません。


今、今が「スタート即ゴール」ということです。

その場できちんとものが解決しているということです。


そのことをつねに念頭に置いて、修行に励んで頂きたいと思います。


今、改める

2018年11月23日 | 法理

現在の自分の様子というのは、過去の結果です。

今の自分の結果というものは、また将来の自分の原因になります。


「改めるのは、今、改めないと改まらない」のです。

ですから一呼吸一呼吸で、それで終わっているのです。


その中で知らず識らずのうちに「自我意識」というものが入ってしまうものですから

終らないのです。


知識の豊富な人は「その時、その場限り」ということをよく承知しておいていただいて

精進していただきたいと思います。


照顧脚下とは2

2018年11月22日 | 語録

「迷う」というのは、今の他に「道」を求めて隔てをつくってしまうことです。

もともと隔てのないものを、勝手に隔てをつくって苦しんでしまうのです。


生きることも死ぬことも同じ「道」です。

決して生まれることが目出度くて、死ぬことが不吉だということはありません。


「道」とはどこにあるのでしょうか。実は全部道なのです。

「道」をはずれた生活は一時もありません。


ですから、今ある「道」を一所懸命に楽しみ、処に安住(あんじゅう)し、努めて

止まない、それが値打ちある人間(にんげん)の生活というものです。


照顧脚下とは1

2018年11月21日 | 語録

私たち衆生は、いつでも「道」の中にいるのですが、それを自分で気が付かない

だけなのです。


「照顧脚下(脚下を照顧せよ)」とは、足元をよく見なさいということです。


「道」は他にあるものではありません。


いつでもどこでも「真っ只中」にいるということを言っているのと同時に足を

運んで「今」の他を尋ねまわるようなことをしてはいけませんよ、ということを

言っているのです。