おシャカ様の教えでいう「輪廻」ということでも、間違えると
「一つの中心となるもの(霊魂)」があって、それが「縁」に因って様々な状態に
変わっていく、といいます。
けれども、そうではないのです。
全体が変わってしまうということです。
「霊魂(心)」だけが残って、それが変わるというのではなくて、全部が変わっていく
ということにならないと、おシャカ様の説かれた「法」ではないのです。
おシャカ様の教えでいう「輪廻」ということでも、間違えると
「一つの中心となるもの(霊魂)」があって、それが「縁」に因って様々な状態に
変わっていく、といいます。
けれども、そうではないのです。
全体が変わってしまうということです。
「霊魂(心)」だけが残って、それが変わるというのではなくて、全部が変わっていく
ということにならないと、おシャカ様の説かれた「法」ではないのです。
おシャカ様の教え以外の他の宗教には、「縁」という思想がありません。
例えば、人が亡くなったということは、「縁」に従って状態が移り変わって行った
ということなのです。
これを「無常」といっています。
「縁」に因って自由に変化していく、そういうものですから「霊(れい)」といっています。
〈呉音では「りょう」と読みます〉
「霊」とは「不可思議」という意味です。
「不可思議」とは、人の考えやものの見方では理解できないことをいいます。
「霊」とは限りないものだと解釈しないと、間違います。
限りないものですから、何にでも変化するのです。
無常、無我、無相を説くおシャカ様の教えを考え方とか、ものの見方と理解すると
人の不思議な行動(働き)や思想(考え)の根源に「霊魂(心)」という存在があって、
人を支配しているような「錯覚」を起こします。
おシャカ様の説かれた「縁起の法」を「霊魂(心)の存在」と誤解されている人が
多いと思います。
人は「縁」に因って、どんなものにでも移り変わることが出来る為に、そのように
人は考えてしまうのです。
何故、私たち衆生は「今の自分」をうけがえないのでしょうか。
おシャカ様は何故こんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と
いわれたのでしょうか。
これは、あらゆる人が「人人(にんにん)の分上豊かにそなわれり、といえども
いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。
ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって
必ずそのことが現われてくるということです。
やらなければ出来ません、歩みを進めていかなければ「行き着くところ」に
到達できないということになるのです。
本当に自信を持って「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」
ということはなかなか言えるものではありません。
「出発はしたけれども、どこに終着点があるのか」ということです。
終着点とはどこかというと、「今の自分」です。
今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたり。
そこしか「行き着くところ」はないのです。
それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。
グジュグジュしている、それしかないのですから、そこに行き着く他はありません。
せっかく「志」を起こして修行に精進していても、その方向が間違っていれば
どこまでいっても「終着」というのは来ません。
「終着とは自分自身のこと」なのです。
しかし、「法」とか「道」とか言われると、何か遠いところに「終着」がある様な
気がするものです。
しかし、そういうものであってはならないということを「法の理」として、よく
理解しておいて下さい。
修行と言うのは、「私は今、修行を始めました」と思うとゴールに至らなければ
いけない、そういう「運動」のような関係ではありません。
今、今が「スタート即ゴール」ということです。
その場できちんとものが解決しているということです。
そのことをつねに念頭に置いて、修行に励んで頂きたいと思います。
現在の自分の様子というのは、過去の結果です。
今の自分の結果というものは、また将来の自分の原因になります。
「改めるのは、今、改めないと改まらない」のです。
ですから一呼吸一呼吸で、それで終わっているのです。
その中で知らず識らずのうちに「自我意識」というものが入ってしまうものですから
終らないのです。
知識の豊富な人は「その時、その場限り」ということをよく承知しておいていただいて
精進していただきたいと思います。
「迷う」というのは、今の他に「道」を求めて隔てをつくってしまうことです。
もともと隔てのないものを、勝手に隔てをつくって苦しんでしまうのです。
生きることも死ぬことも同じ「道」です。
決して生まれることが目出度くて、死ぬことが不吉だということはありません。
「道」とはどこにあるのでしょうか。実は全部道なのです。
「道」をはずれた生活は一時もありません。
ですから、今ある「道」を一所懸命に楽しみ、処に安住(あんじゅう)し、努めて
止まない、それが値打ちある人間(にんげん)の生活というものです。
私たち衆生は、いつでも「道」の中にいるのですが、それを自分で気が付かない
だけなのです。
「照顧脚下(脚下を照顧せよ)」とは、足元をよく見なさいということです。
「道」は他にあるものではありません。
いつでもどこでも「真っ只中」にいるということを言っているのと同時に足を
運んで「今」の他を尋ねまわるようなことをしてはいけませんよ、ということを
言っているのです。