活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

祇(只)管打坐の問題点2

2021年02月28日 | 坐禅

「終わりのない坐禅」とは、坐が無くならない(坐忘ではない)禅が無くならないということです。別の言葉で言えば「禅」から離れられない「禅に執着している坐禅」という事です。

 

物事がいささかある(坐、禅、修行とかです)うちは、絶対に自分の満足というものはありません。

 

「祇(只)管」ということは、「事実」ということです。

 

「事実」ということは認めるべき「ものごと」が無いということです。

 

「実相は無相なり」このことを「祇(只)管【しかん】」といいます。

 

ですから、考えの中で「祇(只)管」を創ってもこれは間違いです。

 

「認識は事実の後に成る(存在する)」のです。

 

不尽


祇(只)管打坐の問題点1

2021年02月26日 | 坐禅

「祇(只)管打坐」とは、禅学大辞典をひもとくと以下のように説明されています。

 

「坐禅に何の意義も条件も求めず無所悟、無所得の立場から端的に坐禅を実践すること」と。

 

以前から日本でもアメリカでもヨーロッパでも「目的を持つ坐禅は間違いである」と説いた人が居ます。

 

現在も大方そういう禅になっております。

 

一体どこからそういう誤りが生じたかというと、「認識は事実の後に生じる」という事を知(識)らないからです。

 

その為に「目的を持たない」という考えがあり、「坐禅」というのは「何も無い状態、事実そのものである」と「錯覚」しているのです。

 

「考えがあってから事実がある」と思っているのです。

 

ですからそのような坐禅をしていても、なんとなく坐禅に物足りなさがあるということは明確です。

 

「祇(只)管 ”ひたすら”、そのまま、無所悟無所得」というものは「認識以前の状態」です。

 

したがって「目的を持ってはいけない」と言われる方が「祇(只)管打坐をしなさい、只(ただ)祇管(ひたすら)に坐りなさい」と、このように説明・指導されると「受け取る側の人」は「祇(只)を認めて祇(只)坐る、祇(只)という考えの中で坐るという坐禅」をしてしまいます。

 

これでは「祇管(ひたすら)」には成らないのです。

 

このような坐禅をすると、何時までも終わりのない坐禅になってしまいます。


祇(只)管打坐4

2021年02月24日 | 坐禅

暫くの間は知識で覚えた「祇(只)管打坐」でも宜しいと思います。

 

「形から入って形が無くなる」ということは、「祇(只)管打坐(今の事実、今の自己の様子)に成る」ということです。

 

そこまで「祇(只)管打坐」をし、「祇(只)管打坐」をしながら「祇(只)管打坐という形の坐禅」が無くなって、自分の物事に成らないといけないのです。

 

そうしないと「祇(只)管打坐をしさえすれば善いのだ」ということになります。

 

今、仮に祇(只)管打坐という例を引いて坐禅の話をしている訳ですけれども、数息観、随息観、公案の坐禅をしていても全部同じものなのです。

 

「人は坐禅するに非ず 坐禅に坐せらるる也」です。

 

不尽


祇(只)管打坐3

2021年02月22日 | 坐禅

「今の事実(今の自己の様子)を自分で知(識)って生活している人は、ひとりもいません。

 

そういう事を「自分の理(理論)」としてはっきり承知しておいていただかないと「知識として覚え、聞いているところの祇(只)管打坐をずっと続けていくということが坐禅の修行だ」と、このように思いを重ねてしまう事になってしまうのです。

 

「無所悟、無所得」というお言葉があります。

 

「何も求めず」ということです。

 

「祇(只)管打坐」なのだから、「悟るところがあってはいけない、得るものがあってはいけない」と理解すれば間違った坐禅になってしまうのです。


祇(只)管打坐2

2021年02月20日 | 坐禅

「祇(只)管打坐 (しかんたざ)」とは、「今の事実(今の自己の様子)」をいっているのです。

 

ですから、「坐禅の形」ではありません。

 

「今の事実(今の自己の様子)」とは、足が痛い、苦しい、妄想分別三昧など、そういうのを全部「祇(只)管打坐」と言っているのです。

 

ところが、本当に「祇(只)管打坐」が分からないから、本で読んだこと、あるいはしかるべき指導者に聞いて「祇(只)管打坐」をいうことを「知識として知っている」だけなのです。

 

ですから、いくら知識として知っている「祇(只)管打坐」行じていても「今の事実(今の自己の様子)と相反している」ということになるのです。

 

自分の物になっていないのです。

 

ですから、「私は祇(只)管打坐をしています」というのです。

 

距離(隔て)があるわけですから、それだけ余分な事なのです。

 


祇(只)管打坐1

2021年02月18日 | 坐禅

「祇(只)管打坐」という言葉があります。

 

これは「只(ただ)坐る」という事です。

 

「祇(只)管打坐」という坐禅の決められたスタイルがあるという意味ではありません。

 

「只、坐る」とは「自分が坐っている」ということさえ忘れて「坐に成り切って坐る」ということです。

 

ここで注意しなければならない事は「坐禅(修行)をしている自分の様子」を正しいか正しくないかという基準を立てて評価をすることのないようにして、「只、坐る」ことによって「只を忘れ、忘れたことも忘れ、坐をも忘れる事」が肝要です。

 

その辺の様子を道元禅師は「身心脱落 脱落身心」を表現して居られます。


祇(只)管

2021年02月16日 | 坐禅

「祇(只)管(しかん、ひたすら)」あるいは「只、唯(ただ)」というのは、自己の入る余地のない本当に純一になることですから「思慮、分別以前の事」です。

「ありのまま」ということです。

 

私たち衆生は「思慮分別する癖」が付いているのです。

 

それに気が付かないといけません。

 

その癖は以前付いた癖以上に努力しないとなかなか無くなりません。

 

特に修行(坐禅)する方々は、「静かに成りたい」と言いますが、心が静かに成って集中しただけで善いというものではありません。

 

「祇(只)管、只(唯)」に近づいているというだけで「祇(只)管」あるいは「只(唯)」には成っていないのです。

 

ですから、「祇(只)管、只(唯)」という物事をもう一つ自分で忘れて頂かなければなりません。

 

忘れ切ったところが「今の事実(今の自分の様子)」です。


近道

2021年02月14日 | 坐禅

「禅」は本来の自己に目醒める一番「近道」と言われる修行です。

 

多くの人が「禅」を知(識)っています。

 

そして知(識)っている為に、「禅的な生活、禅の修行」というように「禅」を使ってしまっていることを、私は遺憾に思っています。

 

その為、私は文章の中でほとんど「禅、坐禅」という言葉を控えてきました。

 

禅を知(識)っている為に間違いを起こしているからです。

 

知(識)ったものは何時までも持っている必要はありません。

 

一度知(識)ってしまったもの、今 知(識)っているもの、それを忘れる必要があります。

 

そうすると、坐禅をしている時と坐禅をしていない時(修行している時と修行していない時)というような区別が無くなります。

 

このことは禅(坐禅)だけではありません。

 

信じるとか信じないとか、好きだとか嫌いだとか、分かるとか分からないとか、そういうものは「自分の物」にしてしまえば何時までも持っている必要な無いということです。


昏沈の坐禅

2021年02月12日 | 坐禅

「昏沈(こんちん)」というのは善く、仏教の概念で言うところの「空」というような所にどっかり坐ってしまって、是も無く、非も無く、悟りも無く、捨てる物事も無く、使う物も無くというような、「無い無い尽くし」で坐っていることをいいます。

 

ですから、「目的を持ってはいけません、自分の考えを起こしてはいけません」と、道元禅師のお示しの中に自分をどっぷりとのめり込んで、漬かり込んで形通りの坐禅をしている状態の事を「昏沈の坐禅」と言います。

 

「空」に沈んでいるということです。

 

実際「ただひたすらに坐れば宜しい」という、それは「空に著する坐禅」です。

 

静かな一面(平等)だけ在って、差別(しゃべつ)の面に出て活動が出来ないという事です。


散乱の坐禅

2021年02月10日 | 坐禅

「散乱」というのは、心が落ち着かないということです。

 

ですから、そういう人の坐禅の状態はよく「眼」に表れているといいます。

 

逆に「昏沈(こんちん)の坐禅」も、両方とも悪い状態です。

 

道元禅師はそのことを「昏散 先ず撲落(ぼくらく)して」とお示しになり、「そうあってはならない」という事を言っています。

 

そういうものが落ちないと「真箇の正法」というものが現前しないということです。

 

「昏沈と散乱」で「平等と差別(しゃべつ)」ということをいっているわけではありません。

 

「坐禅の当体」というものは平等でもなければ差別(しゃべつ)でもありません。

 

「昏沈」でもなければ散乱もしていない状態が「坐禅」です。

 

ですから「坐禅は坐禅なり」なのです。

 

そのことを道元禅師は、「坐禅は習禅になあらず、ただこれ安楽の法門なり」とはっきりお示しになっておられます。