私たち衆生は、自分は生まれた時からもうすでに「太郎」とか「花子」という
名前が付いているように考えています。
しかし、「太郎」とか「花子」という名前は後から付けられた自分の「象徴」に
すぎません。
生まれた時のことを知(識)らない自分と、いつの間にか「太郎」とか「花子」と
名前を付けれられている自分を自分だと思っている自分との「二人三脚の生活」を
送っているのです。
その「象徴」にすぎない「太郎」とか「花子」を認める心の働きを「自我」といいます。
私たち衆生は、自分は生まれた時からもうすでに「太郎」とか「花子」という
名前が付いているように考えています。
しかし、「太郎」とか「花子」という名前は後から付けられた自分の「象徴」に
すぎません。
生まれた時のことを知(識)らない自分と、いつの間にか「太郎」とか「花子」と
名前を付けれられている自分を自分だと思っている自分との「二人三脚の生活」を
送っているのです。
その「象徴」にすぎない「太郎」とか「花子」を認める心の働きを「自我」といいます。