おシャカ様は一国の王子であった時に、「生老病死」という誰もが逃れ難い
人の苦しみをご覧になり、あまりのショックからお城を出られました。
そして「安心(あんじん)の道」はないものかと、苦行林(くぎょうりん)に
入られました。
そこで壮絶な修行をされましたが、どうしても「死」について納得がいかず、
苦行林を出られて菩提樹の下で坐禅をして、「正覚(しょうがく)」を得られました。
ですから、「正覚」は特殊な修行をした結果、得られたのではなかったのです。
おシャカ様は一国の王子であった時に、「生老病死」という誰もが逃れ難い
人の苦しみをご覧になり、あまりのショックからお城を出られました。
そして「安心(あんじん)の道」はないものかと、苦行林(くぎょうりん)に
入られました。
そこで壮絶な修行をされましたが、どうしても「死」について納得がいかず、
苦行林を出られて菩提樹の下で坐禅をして、「正覚(しょうがく)」を得られました。
ですから、「正覚」は特殊な修行をした結果、得られたのではなかったのです。
一切のものは「縁」に因って出来ていますので、もともと固定された「これだ」
というものは、認めることは出来ません。
これを「仏説」というのです。
又、「仏説」というのは後からそういう状態、即ち一切のものが因縁に因って成り立って
いることを眺めて説かれたもので、「道(法)」というのは、宇宙に最初から存在して
いたものではありません。
人類で一番最初にそのことに目醒められたのがおシャカ様なのです。
そのおシャカ様(仏)の説かれた説だから「仏説」というのです。
ですから、おシャカ様のお言葉を拝借すれば、「天上天下唯我独尊
(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」です。
このことは、おシャカ様だけが「天上天下唯我独尊」なのではありません。
おシャカ様が「自分を忘れた時(同時成道の時)」に、そういうお言葉を
発せられたのですから、私たち衆生(すべてのひとりひとり)がみんな、
天上天下唯我独尊なのです。
修行していく態度というのは、自分の考えというものを、一応忘れてしまわなければ
なりません。
何故ならば、「自分というものの考え方」は小さいからです。
「道(法)」を得ると、今度は皆それぞれの素晴らしい考えを、広く大きく深く展げて
いけるようになります。
「自分を無にする(無くす)」という本来の意味は、自分を考えないでいいんだとか、
考えてはいけないんだということではありません。
「自分を大きくする」ことです。
私たち衆生も時節因縁に因って、必ず自分で花開いているのです。
これを「自然(じねん)」といいます。
又、これを別の言葉で「不識」といいます。
ですから、ただ自分で気が付かないだけの話なのです。
これはどんな「知恵」でも測ることは出来ません。
これが「智慧」の姿なのです。
私たち衆生は、やらなければならないことはちゃんとやれますし、
やってはいけないことはちゃんとやらないでいられます。
これはもう本当にその通りの「日常生活」をしている訳です。
考えれば実に「不思議(不可思議)」なことです。
私たち衆生の「日常生活」というものは、知(識)る知(識)らないに関係なく、
そういうものがない処で「日常生活」をしているのです。
ただそのことに気が付かないだけなのです。
「花」は雨で散っても「花そのもの」は一向に悲しんではいません。
あるいは、咲いたからといって喜んでもいません。
時期が来れば「花」は咲きます。散ります。
何かそこに隠されているものがあるのでしょうか。
「本来の自己」とは、「認めようのない、認めることが出来ない際限のない
大きな自己」ということです。
それに目醒めることを、別の言葉で言えば「無我、無心、空、自己を忘じる」
というような言葉で表現されているのです。
人も含めて一切のものというのは、いつでも同じ状態というものはありません。
いつでも移り変わっている(無常)ということで、終始変化し続けているものには
「自我」という「これだというもの(中心となるもの)」を認めることは出来ないのです。
「ものが見えた、今何か聞こえた」ということは、既に「事実」というものは
過ぎ去ってしまっているのに「自分の考えの中だけ」で、「ものが見えた、
今何か聞こえた」というものが残る訳です。
それは「どこにもない自分」を認めて有(在)ると思っている、その有(在)ると思っている
自分が意識を起こして「自分は見た、今自分は聞いた」と、「妄想」を起こしているのです。
ですから、私たち衆生の修行は「本来の自己」に目醒めなければならないということなのです。
そして最後に趙州禅師は気が付かれたのです。
「ああなるほど」というふうに気が付かれたという有名な「平常心是道」という
話があります。
そのようにしてお分かりにならない人は、「自分の求めているものがどういうものであるか」
ということを一応、尋ねてみる必要がある訳です。
当時の趙州禅師は「平常心是道」といわれてもお分かりにならなかったのです。
もっと何か特別なことがある様に考えておられたに違いありません。
それはそうに違いありません。
そんな「平常が道だ」というようなことは、とてもお考えになって居られなかった
と思います。
きっと当時はビックリされたと思います。
しかし、その「平常心是道」ということを聞かれて色々お尋ねになったのです。