活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

法身(ほっしん)2

2018年08月31日 | 道のこと

「この私というものの体(色身)」においては、悟ることやものと一つに成ることは

出来ません。


「法身」が分かれば自分の他に何も無いということが分かります。

即ち悟るべきも迷うべきも何もないということです。


しかし、どんな人にも「わかった」というものが残るということはよくあることです。

ですから、「分かったという病」を取っていかなければならないのです。


分かってみれば分かったということが「不要な病」であったということにも気が付く

訳です。


「今の事実、今の自分の様子」以外に「道(法)」はないということです。

「道(法)」というものは必ずある訳です。


「娑婆世界」のことですから、自分の思うようにいかないことは当たり前のことです。

当たり前のことですけれども、その中で「道(法)を求めていかなければならない

訳です。


法身(ほっしん)1

2018年08月30日 | 道のこと

私たち衆生の日常生活においては「眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意(心)」の六根の

働きの中にしか存在しません。


ただ、「意(こころ)」というのは「五根(眼・耳・鼻・舌・身)」のように物を

「識別」するものではなく「分別」する道具です。


「分別」するだけで悪いとか善いという「判断」をするものではありません。

それが「意(こころ)の働き」です。


ですから、私たち衆生はきちんとすべてのものをそのまま受け入れるように

なっているのです。


これを「法身(ほっしん)」といいます。

本来私たち衆生は「法身(法の身)」なのです。


ですから、私たち衆生は修行して「法身」が求められるのです。

私たち衆生は「法身」を求めなければなりません。


すべてのものが「法身」でありますから、「縁」に触れてものと一体だった

ということに気が付く様になっているのです。


それを邪魔しているものが「我(が)」という自分で、いつの間にか認めたものです。


道の求め方2

2018年08月29日 | 道のこと

山を越えるにも自分が越えてみないことには、どうしようもないのです。


越えずにいれば、いつまで経っても山は越えられません。

ですから、自分で越えなければならないのです。


越える方向も道元禅師がはっきりとお示しになられているのですから

自分で越えればよいのです。


おシャカ様の悟りの様子は「ちゃんと誰でも救われていたではない」

ということが、はっきりなさったのです。


別の言葉で言えば「迷いというものは人の念が生ずることに因って起きる」

ということがはっきりしたのです。


道の求め方1

2018年08月28日 | 道のこと

「道」を求める人はたくさんいます。

しかし、求めても求められない人がいるのはどうしてでしょうか。


それは、「求める方向が違っていた」のです。


例えば、お経を詠む読むにも「覚者」はそのお経のあり方というものの

要点を知(識)っています。


「他者」は知(識)らずに経論の教えに従って取り扱いをすると言うことの違いです。


私たち衆生は考えを持って困っています。

この考えから離れるには一体どうしたらいいのでしょうか。


そのところを道元禅師は、

「自分の為でもない、他人の為でもない、人間(にんげん)的な欲求ということ

ではなしに此の物自身の真相(六根自体)まかせにしてご覧なさい」

と、お示しになりました。


しかし、今まで自分で「求める方向が違っていた」というそういう習慣が

多くの人にはあるものですから、お示し通りになかなかいかないのが

実体(実情)なのです。


身心一如

2018年08月27日 | 仏教

「身心一如」というのは「身」といい「心」といい、違ったものが有(在)る

訳ではないのです。


一つ物を一面から「身」と名付け、一面から「心」と名付けただけのものです。

仏教は必ず「身心一如」なのです。


それが本来の姿なのです。


それを多くの人は「心(精神活動)」というものと「身(体)」というこの

「肉体」を認めるのです。


そういう一つ物を人は「心」の上に認められたものを土台として見るので

「自(私)と物」というように「二つ」に成るのです。


ところが不思議なことに「この物(人)」がそう思わなくても、どうしなくても

環境と「この物(人)」とが一つに成って大きく動かなければならないように

出来上がっているのです。


「心」といわれるものが変わって「身」といわれるものになり、「身」といわれるものが

あらわれて来ると、それから色々なそれぞれの因縁の関係に因って「物」が別々になって

くるのです。



そのもの自体

2018年08月26日 | 仏教

おシャカ様の教えというのは「そのもの自体」ということです。


「そのもの自体」というのは「求めるものもなければ捨てるものもない、

一切認めることの出来ないもの」ということです。


また、認めることも「そのもの自体」ということです。

只その「事実」を認めるか認めないかの相違が「迷いと悟り」の隔たりをつくるのです。


「事実」を有(在)ると認識した場合はこれを「迷い」といい、「事実」もないことを

体得した場合を「悟り」といいます。


「悟り」に至るまでには多少の遅速はありますが、「悟りそのもの自体」には遅速は

ありません。


「道(法)」は、形あるもの認められるものがあってはならないのです。


意識自体

2018年08月25日 | 法理

「意識の中に自己を忘ぜよ」とは「意識を無くすること」ではありません。


即ち「意識自体」純粋に「意識自体」である時に、「意識自体」が「意識自体」を

知(識)ることは出来ないのです。


別の言葉で言えば、主体を主体と知(識)ることもできないところに「意識の主体」

すらも「消滅(なくする)する」のです。


「眼」は「眼を見ることは出来ない」ということです。


それは「意識自体」が「意識以前の事実(実体)」に直接証せられて、得る必要

もなく捨てる必要もなく自信の必要も全くないことを得るからです。


この時初めて「今の事実」が無条件で証せられ「日常生活自体が法身(ほっしん)」

であることを自得するのです。


これが「求心(ぐしん)」が全く止む時です。

即ち「無明の絶滅」です。


事実の真相2

2018年08月24日 | 法理

私たち衆生は指導者から「只」とか「そのまま」とか言われるとすぐに

「只」とか「そのまま」を認めてしまうものです。


「只」とか「そのまま」と名付けられるあり方をしているものはありません。


「事実」を指して説明したものが「只」であり「そのまま」なのです。

私たち衆生はどのような状態にあっても「事実」から離れることは出来ません。


修行とは「無相(相がないもの)」に至る迄の「方便」なのです。


生まれたことも、死ぬことも自分で知(識)ることが出来ないのに、私たち衆生は

「事実(今)こうして生活している」ということです。


事実の真相1

2018年08月23日 | 法理

「事実」というものは、考え(認識)の先にあって、考え(認識)を起こした時には

「事実」は既になくなっているのです。


これが「事実の真相」です。


このことは「事実」を「今」に置き換えても同じことがいえます。


私たち衆生は考え(認識)によって、又は、考え(認識)の中で「事実」に達しようと

することは間違いです。


「考え(認識)は事実の後に生じる」ということを知(識)らなければなりません。

「只」ということは「事実」ということです。


「事実」ということは認めるべきものがないということです。


復活2

2018年08月22日 | 法理

一度は「活かして生きる道」を求め、「教えに従って修行」し、

「自分で自分の正体を見極める」必要があるのです。


そのことを「絶後に再び甦る」といいます。


その絶後の様子が、「今の事実、今の自分自身」なのです。

絶後に始めて「活かして生きる道」が「復活」するのです。