独参2
「熱」でも色々なものが集まって「ひとつの熱」になります。
決して「熱」というものが最初にあったはずではありません。
「熱」というものをバラバラにしたら、ものすごくたくさんの数の「熱の元」
になるものがあります。
人間(にんげん)でも同じです。
それを「因縁果」という言葉で表現しているのです。
ですから、「自我の究明」が大事なのです。
「熱」でも色々なものが集まって「ひとつの熱」になります。
決して「熱」というものが最初にあったはずではありません。
「熱」というものをバラバラにしたら、ものすごくたくさんの数の「熱の元」
になるものがあります。
人間(にんげん)でも同じです。
それを「因縁果」という言葉で表現しているのです。
ですから、「自我の究明」が大事なのです。
禅門においては「独参」が非常に大事にされていますが、「独参」というのは
「師に参ずる」のではなく、あるいは「独に参ずる」のでもありません。
独参は独りで参ずるのです。
ですから、参ずる人はそこにはいません。
つまり、話しかける側とそれに答える側は一緒なのです。
ですから「師」はいません。
そのことを禅語で「啐啄同時(そったくどうじ)」といっています。
「自分」というと「自と他」を分けて考えがちですけれども、あらゆるものは
自分なのです。
自分でないものはこの世には存在しないということです。
「教え」が要らないようにならなければならないのです。
「教え」が要るようでは泥棒が絶えないのです。
泥棒をするから「教え」が必要なのです。
ですから、もっと酷な「戒律」が必要になるのです。
徳川時代までは「徳」を以って国を治めたから「公札」は三ヶ条しか
無かったそうです。
老子曰く、「聖人死せずんば大盗やまず」というお示しがあります。
聖人は泥棒の親方のようですが、聖人が泥棒の親方ではありません。
聖人というものは、泥棒をするなと言って人に教えて居ます。
「教えというものが要る限りは盗賊が絶えない」ということです。
「総ての物の善」というのは真理ですから、人間は真理を実行しなければ
立って歩く一つの動物に過ぎません。
真理を実行すれば神とも仏とも言われるような尊きものに成るのです。
先ず「真如」に準ずるを「善」となし、「真如」に随うのが「善」です。
「真如」とは、万物は実理ですから、これは天地間の本体です。
一切万物「真如」でなければなりません。
それが即ち「善」なのです。
世に処するには人間の道徳を実行という、実際に行わなければなりません。
道徳というものは議論ではなく、総てが実行の行です。
学問が無くても此の実行は出来ます。
理窟も何もいりません。
心正直に親切に厚い心さえあれば此れが実行出来ます。
「善」とは必ず「真理」です。
真理は必ず善なるものであることを知らなければなりません。
「罰が当たる」、そこが「冥理」です。
それを「神」というのです。
善は善とし、悪は悪とし、知らず識らずの間にその「結果」があります。
「冥理」は天地間の活理です。
「冥報(みょうほう)」です。
能くかみしめて、能く味わってみてこれを「身口意(しんくい)」に実際
行なうようにしなければなりません。
「瑜迦論(ゆがろん)」の中に「多聞は能く法を知る、多聞は能く悪を遠ざ
くる」とあります。
「法」というは、万事の事で、早起きから顔を洗うという事も一つの「法」
です。
ですから、一杯の水も無駄に使ってはいけないのです。
よく、「冥理(みょうり)が悪い」ということがありますが、「冥々(めいめい)
の裡(うち)」の目に見えない天地間の真理は恐ろしいものです。
「未曾有因縁経(みぞういんねんきょう)という経の中に「仏の七財宝」
という事をお説きになって居られます。
その「七財宝の五番目」に「聞(もん)」と記されています。
「聞(もん)」とは聞くという事です。
「聞思修(もんししゅ)」というお示しがありますが、聞いたら好く思い
考えて見て、それから、修といって修行する、聞いて考えてからこれを
実際に本当に「真実の誠」で実行することです。
自分を無にして人様のために尽くすということです。
皆さんそれぞれの人がそれぞれの「法」を持っているのです。
「一人、一宗といっても差し支えないと思います。
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」です。
人類で初めてそういうことに気が付いた人、「法」に気が付いた人、
そのお方を「おシャカ様」と呼んでいます。