「此の物」の出来映えも、「六根」のどれを取ってみても結局固定した
もののない「無常」といわれる「無性」なるものが只活動しているだけ
なのです。
これが「仏法」の教えです。
「仏の知見」というのは、そういうようなことを体験せられた確実なる
「自覚」なのです。
「此の物」の出来映えも、「六根」のどれを取ってみても結局固定した
もののない「無常」といわれる「無性」なるものが只活動しているだけ
なのです。
これが「仏法」の教えです。
「仏の知見」というのは、そういうようなことを体験せられた確実なる
「自覚」なのです。
ここで「無」ということを、あらためて申し上げれば「無」というのは
「ない」ということではないのです。
本当に「自由」ということなのです。
絶対の自由性なのです。
その絶対の自由性を「無」といい「空」といったのです。
「眼」をご覧ください。
これは絶対の自由性です。
自分で使うのではないのに眼が開いている限り、どんなものでも向かえば
そういうふうに必ず活動します。
そして止む時がないのです。
「六官」という感覚器官全てがこういうふうに出来ているのです。
しかし、人間(にんげん)自体としては知(識)らないのです。
人間自体としては分からないのに(自分の考えとして分からないのに)どういう
訳か活動するように出来ているのです。
「菩提心」が無ければたとえ、悟っても皆「うそ」になります。
有名な白隠禅師は、二十四歳の時に痛快に悟ったのですが、「菩提心」が
なかったから魔の悟りになってしまいました。
実に四十二歳の時までそのことに気が付かなかったのです。
後に「我魔道に陥れり」と懺悔(さんげ)しておられます。
白隠禅師の印可證明(いんかしょうみょう)を受けた弟子の東嶺(とうれい)
和尚は白隠禅師四十二歳までを因行格(いんぎょうかく)と、四十二歳後の
滅八十四歳を果行格(かぎょうかく)と、はっきり記しておられます。
また「菩提心」とは、世界の人々と「道」を楽しむということです。
そこで「菩提心の要訣」は人々をして「菩提心」を起こさせることに務める
ことです。
救われる人より、救うべき人になるのです。
これを「自未得度先度他(じみとくど せんどた)」といいます。
つまり誰にもこの心を起こさせるのです。
先ず自ら「菩提心」を起こして、人にも起こさせるのです。
起こしなさいと標本を示すのです。
そうすると、とにかく、救いを以って自任する人と成るのです。
おシャカ様の目から見れば「菩提心」は目の前で実行していることが見えるのです。
このことを信じられないということは、おシャカ様の多年の難行苦行に対して
申し訳ないことです。
何故そのことが解らないのかというと、「我」というものがあるからです。
元来「我」というものはないものです。
何故ならば「天地は一つのもの」だからです。
切っても切れない仲なのです。
皆、我です。
大きな我です。
先般、「宇宙とは」で論及しましたが、「菩提心」とは、無上道を得て、
宇宙を救い尽くすということです。
「宇宙を救い尽くす」とは、天の天蓋(てんがい)までも救う心です。
本来、救われるように成っているのです。
現に救いつつあるのです。
そのことをおシャカ様は「天地と我と同根、万物と我と一体」といって
おられます。
これは不変の真理です。
また、「有情(うじょう)非情同時成道」ともいっておられます。
「成道」とは成仏ということです。
「成仏」とは救いということです。
これは救いつつあるということなのです。
「禅」を修するには、先ず「菩提心」を起こさなければなりません。
「菩提心」が無ければ、「禅」を修しても駄目なのです。
今の参学の人には、「菩提心」の名前すら知らない人がいます。
「菩提心」の事を説いて聞かさない指導者が今時多いと思います。
「菩提心」のない指導者が「菩提心」を説いて聞かすことは出来るものではありません。
「菩提心」はこの私たち衆生の体に本来充ちているのです。
「菩提心」は生まれつきのもので、無くしようと思っても無くすることの
出来ないものです。
天性もって生まれたものです。
「そこ(化城)まで」行けば「仏道」「法」「修行」といわれるものも
不必要であったということに気が付く分けです。
ですから、「実相は無相なり」これを自分の求める目標としてよく定めて
いただかないと、迷いながら修行をしていることになります。
しっかり、「目標を設定して修行」して頂きたいと思います。
学問としては「一つの点を認めない」と研究になりません。
仏道の「空」「無」ということもそうです。
最初から「空」「無」ということがあったわけではありません。
私たち衆生に「法」というものを分かってもらいたいために「空」「無」
ということを立てて、「化城(けじょう)」という幻のお城をつくったのです。
「成る程、すべてのものは縁起によって生じているので、中心になるものは
何もないんだ」ということを、知っていただきたい為に立てられたのです。
「他に随い去る」というのは、親しさの極まり、距離がないことを言って
いるのです。
そして、みんなが他に随っていくことを「仏性」というのです。
「洗い落す」とは別の言葉で言えば「見性(けんしょう)」です。
「見性」というのは、自分の本質を見るということですが、そのためには
どうしても坐り尽くす坐禅が必要になってくるわけです。