活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

観念と事実1

2020年03月31日 | 法理

おシャカ様は人々の苦しみにいたく心を病まれて出家の道に入られて修行なさいました。

 

大変な苦行の結果、修行林の卒業証書を頂いたのですが「死」ということがお分かりになりませんでした。

 

「死」というものが観念的には分かっていても「事実」が分からない分からないということに気付かれました。

 

そこで非常にご苦労をなさって「禅定」に入られました。

 

それが今、私たち衆生が務めている「坐禅」です。

 

私たち衆生は数を数えることの出来ない苦しみがあって自分の心の中にはその苦しみ一つしか入りません。

 

ですから、安らぎを妨げている「苦」というものが一つ解決(解消)すれば後の苦しみは「雲散霧消」して失くなってしまうのです。


おシャカ様の欲

2020年03月30日 | 法理

おシャカ様は「世界中の人々は皆 我が子だからどうしても済度しなければならない、捨てて置けない」と仰っています。

 

これはおシャカ様の慈悲心より観る想理です。

「救世(くせ)の欲」です。

 

おシャカ様にも欲があるのです。

 

それはどういう欲かというと、華厳経に「清浄(しょうじょう)の欲を起こして無上道を志求(しぐ)す」とあります。

 

無上道と志求して、求めなければならないということです。

 

おシャカ様の眼から観ると、私たち衆生はあわれで捨てて置けないのです。

 

如何しても自分の身心在らん限り世の中の衆生を救いたいということなのです。


今の事実と認識3

2020年03月29日 | 法理

「何処にも無い自分」を認めて、有(在)ると思っている「自我(その有(在)ると思っている自分」が「認識」を起こして、自分があたかも「見たかのような錯覚」を起こしているのです。

 

ですから、私たち衆生はどうしても「本来の自己の正体」を見極める必要が有(在)るのです。

 

「一切のもの(人も含めて)」は何時でも同じ状態というものは有(在)りません。

何時でも移り変わっているのです。

 

それを「無常」といいます。

 

絶えず移り変わっているものには「自我(中心となるもの)」は認めようにも認めようが無いのです。


今の事実と認識2

2020年03月28日 | 法理

何故ならば、不思議なことに「自分は困っている」とはっきり自分で「自覚」しながらしかも、その自覚した事に困っている状態ということは、不思議なことではないでしょうか。

例えば、「ものが見えた」ということは、既に「ものが見えるという今の事実」は過ぎ去って「ものが見えた(過去)」という「自分の考えの中」だけで「見えたものが残る」訳です。


今の事実と認識1

2020年03月27日 | 法理

見る、聞く、考える等、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の働きは、一切自分というものを離れているのです。

「知るとか知らない」とかに関係なく「その物(六根)」の働きのまま、つまり「そのままに成っている」のです。

そこには一切の意味付け、意義付けというような、ものの介在する余地は有(在)りません。

また、「信じる信じない」というような事も取り付く余地は無いのです。

 

もし、此の事に疑問を生じたのであれば、それは相手に因って生じたのではなく、自分自身が自分自身に対して疑問を生ぜしめたという事です。


不識について3

2020年03月26日 | 法理

因みに、「不」の字は否定や除去にあらずして、物の真実体をあらわす字なのです。

 

「非」の字も同様で、非は非如来です。

 

如来も如来のくさみが取れて本当の如来です。

 

如来は私たち衆生の思うようなものではないのです。

 

非如来は「非の如来なり」と訓み、くさみが取れた所を非という字を使ったのです。

 

「不知不識(しらずしらず)」とは「無意識のうちに、思わずしらず」という意味です。


不識について2

2020年03月25日 | 法理

一般の理解では不識とは「識らず、知らないこと」とされていますが宗教では不識を「識を超えた意味、分別をもってはかることの出来ない意味」と捉えています。

 

識を「言部、言偏(ごんべん)」とするのは言語によって道理を聞知するからです。

 

余談ですが不識と不知とは甚だ差別(しゃべつ)があり「知」の字の方が重いのです。

 

ですから道を知るとは、心の底より知るということなのです。

 

道を識るとは一寸見覚えがあるまでの意なのです。


不識について1

2020年03月24日 | 法理

「縁起(因縁果)の法」に随って生滅を繰り返しながら活動を続けている宇宙の相(すがた)は、個の存在を認めることは出来ません。

是れを「不識」といいます。

 

人間(にんげん)もまた宇宙の活動体の中から生じた活動体ですから、個即ち自我の存在を認めることは出来ません。

是れもまた、「不識」です。

 

総ては「自我の認識」に因って束縛や苦悩が生じるのです。

しかし、それからを認識する時間も空間も全くない「空」なのも「事実」なのです。

 

ところが、その中にあって心の安らぎと自由を成就した覚者(本来の人)は、何時でも何処でも何をしていても「一切の衆生」と共に在って修行を続け停滞することを知(識)らないのです。

是れもまた「不識」といいます。


おシャカ様の慈しみ2

2020年03月23日 | 法理

おシャカ様は一切の有形無形の世界は全て「因縁、縁起」に因って生じ、また「因縁、縁起」に因って滅するものであると示されたのです。

 

更に「因縁、縁起」に因って形成されているものなので「中心が無く、実体も無い」と示されたのです。

 

そして「始終変化(無常)」していて「無始無終(無我)」であり「無相(相の認めようがない)」であると示されたのです。

 

これがいわゆる「三法印(さんぼういん) 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。


おシャカ様の慈しみ1

2020年03月22日 | 法理

現代社会に於いて私たち衆生は、不安や心配等からの解決のために様々な思考を廻らしながら日常生活を送っているのではないでしょうか。

 

有史以来人類で一番最初に「真実の自己に目醒められたお方」がおシャカ様なのです。

 

そのおシャカ様が人類の不安や心配の解決の為に示されたのが「道(法)」なのです。

 

おシャカ様の教えは「自らが覚者(ブッダ)」と成り「因縁、縁起」を方便として用い「道(法)」を示されたのです。