活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

因縁果3

2020年05月31日 | 法理

おシャカ様はすべてが「空」に成られた様子を「因縁果」に因って詳しく説明しておられます。

 

「因縁果」の三つの中に「因縁果(因の中に因縁果、縁の中に因縁果、果の中に因縁果)が有(在)って止めどもなく続くというために、何処をとらえて因とか、縁とか、果とかいえるのか)ということをあえて説明をなさっているために、説明を捕らえて、あたかも因縁果という物が有(在)って私たち衆生の今の様子がそれに沿った状態に成っているようにしか考えられないのです。

 

ですから、私たち衆生はどうしても本来の今の様子、自分の本来の様子を見極める必要が有(在)るのです。

 

「私たち衆生は仏そのものである」のです。

 

しかし、如何しても「人から育て上げられた自分というもの」に因ってその事がそうだと頷くことが出来ないのです。

 

信じれば信じるほどもどかしさが出て来るものだと思います。

 

どうかすべての事に細かく「ひたすら(祇管、只管)」であって頂きたいのです。


因縁果2

2020年05月30日 | 法理

「修行というのは死ぬまでだ」と、人は死なないのに「死」という限界を作って安易な方向に流されて行ってしまう恐れがあります。

修行というのは決して死ぬまでということではありません。

 

人の生死(しょうじ)は瞬間、瞬間に移り変わっています。

同じ状態というのは全くありません。

何時でも新しい状態なのです。

 

ですから務めて精進をして「今の処に腰を下ろしてはいけない」ということをよくよく自分で承知をして頂きたいと思います。


因縁果1

2020年05月29日 | 法理

仏教では「因・縁・果」という言葉を使って「物(実体)の無い」という事を説明しています。

 

原因は有(在)っても結果というものは無い」のです。

 

どういう事かというと、「今の結果がそのまま将来の原因」になっているということです。

 

今の結果が直ちに将来の原因になるのですから、今の結果を変えなければ三十分後の将来も今の結果が残るということです。

 

今、その事を自分自身で悔い改めて修行しないと一年後も何時までも「今のままの状態」がずっと続いていくということです。

 

その事をよく自分自身で知(識)っておいていただかないと「いずれそうしていれば何とかなるだろう」という考えを持って修行をしていたら何時の間にか「習学」になってしまいます。


自分の法3

2020年05月28日 | 法理

「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)」。

みんなそれぞれの人は職業を持っています。

 

「作法是宗旨(さほうこれしゅうし)」。

それぞれの決まりの中の生活をしているということです。

 

これはお坊さんだけのものであるかのように説き示されていることは大きな間違いです。

ですから、出家の人、そうでない人に拘わらず「修證(修行と悟り)」は出来るということです。


自分の法2

2020年05月27日 | 法理

それでは「何故おシャカ様の法、あるいは道元禅師の法を求めなければならないのか」ということになります。

 

求めるのではありません。

そういうお方のお示しを「承って(それを入り口として)」人人の分上に豊かにそなわっているところの「自分の法」を把握することです。

 

私はおシャカ様や道元禅師のようには成れないという考えを持つのは間違いです。

 

何故ならば「法」というものは比べることが出来ないものだからです。

 

自分の法に自分が目醒めるのです。

 

「分上ゆたかに」というのですから、それぞれの人そのものです。

 

小さい人は小さい、大きい人は大きい、それが「この法は人人の分上豊かにそなわれり」ということです。


自分の法1

2020年05月26日 | 法理

「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれり」という道元禅師のお示しがあります。

 

「法」というのは何も知(識)らない、一切為さざるところにおいてはっきりと物が見える聞こえる味わえるという「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の働きのままのことです。

 

自分の中で何かを知(識)るというようなことがなくても、全てがきちんと分かります。

 

始めて見るもの、始めて聞くもの、始めて味わうものもきちんと分かるということです。

 

そういう事を「この法は人人の分上ゆたかにそなはれり」といっているのです。

ですから、それぞれの人がみんなその人の法ではありませんか。


四つの状態2

2020年05月25日 | 法理

一、自分が無くなったけれども相手がある状態

二、相手は無くなったけれど自分が残っている状態

三、相手も自分も有(在)るという状態

四、相手も自分も無くなったという状態

 

「今の事実、自分の今の様子」というものは、この四つの状態の他に有(在)るということです。

別の言葉で言えば、今の私たち衆生一人一人の状態がこの四つの状態の他の処に有(在)るという事なのです。


四つの状態1

2020年05月24日 | 法理

「今の事実、自分の今の様子」を振り返ってみると、習慣性が人にはあります。

そうなると下記に掲げる四つの状態に入ってしまいます。

 

一、言葉では言えるけど内容が伴わない

二、内容は分かったけれども如何しても言葉としてはその状態を言い表せない

三、言葉も内容も全く分からない

四、自分の思う内容も言葉に依って言い表せる

 

修行の過程においても更に四つの状態があることは別の覚者もおしめしになっております。


本来無自己2

2020年05月23日 | 法理

具体的にどうしたらいいのか、「自己を忘るるなり」と、お示しになっているのです。

 

私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」に因って見聞覚知(けんもんかくち)しているものを「自分」だと思い込んだり、何時の間にか知らず識らずにそうなってきてしまっているのです。

 

そういう私たち衆生の様子を「生死の元(生きたり死んだり迷ったりする元)」だといっています。

 

ですからそれを「忘れなさい」といっているのです。

そうすれば「本来の自己に目醒めることが出来ますよ」とお示しになっておられるのです。


本来無自己1

2020年05月22日 | 法理

道元禅師 正法眼蔵の中に「仏道をなろうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己を忘るるなり」と、お示しになった文言(もんごん)があります。

 

「仏道をならうというは自己をならうなり」の「自己」とは「因縁生(いんねんしょう)」に因ってつくられたところの無自性」ということです。

 

ですから「中心の無い、何処にもつかみどころの無い自己」ということです。

これを「本来無自己」といっています。

 

ですからその自己を自分で見つけ出すために無自性(自性の無い)にならいなさいといっているのです。

それを「自分のものにしなければいけませんよ」といっているのです。