私たち衆生は、結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。
ところが「求心(ぐしん)」求め心がなかなか無くならない為に「今の結果に安住出来ない」ということなのです。
安心してその中に入られないのです。
結果というものに、「善悪」はありません。
善くても悪くても結果です。
結果は今で言えば「証拠」ということになります。
その「証拠」に自分自身が任せることが出来ないということです。
「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任す」そういう境涯になるために、しばらく「ただ」という言葉を借りて修行をし「ただに成る」べく努力するということです。
しかし、それがすべてではありません。
昔の方々が、「このように修行をしたら、あまり苦しまずに坐ることが出来ますよ」ということから、たまたま「祇(只)管打坐」「公案功夫」という、そういう「方法・手段」を残していかれたのです。
ですから、私たち衆生はしばらくその手段・方法を借りて修行をするということです。