「ものが見えた、今何か聞こえた」ということは、既に「事実」というものは
過ぎ去ってしまっているのに「自分の考えの中だけ」で、「ものが見えた、
今何か聞こえた」というものが残る訳です。
それは「どこにもない自分」を認めて有(在)ると思っている、その有(在)ると思っている
自分が意識を起こして「自分は見た、今自分は聞いた」と、「妄想」を起こしているのです。
ですから、私たち衆生の修行は「本来の自己」に目醒めなければならないということなのです。
「ものが見えた、今何か聞こえた」ということは、既に「事実」というものは
過ぎ去ってしまっているのに「自分の考えの中だけ」で、「ものが見えた、
今何か聞こえた」というものが残る訳です。
それは「どこにもない自分」を認めて有(在)ると思っている、その有(在)ると思っている
自分が意識を起こして「自分は見た、今自分は聞いた」と、「妄想」を起こしているのです。
ですから、私たち衆生の修行は「本来の自己」に目醒めなければならないということなのです。