行誡上人(ぎょうかい しょうにん)曰く。
「仏法を以て宗旨を見るべし、宗旨を以て仏法を見るべからず」
仏教ではあまり「悟り」だとか「見性(けんしょう)」だとか「脱落」ということはいいません。
これらは「禅宗という宗旨の言葉」です。
しかし、私たち衆生の日常の生活(仏法)は、いつでも何処でも、何をしていても、その中(宗旨)に入っているのです。
仏教で言う「実相無相(実相は無相なり)」ということです。
行誡上人(ぎょうかい しょうにん)曰く。
「仏法を以て宗旨を見るべし、宗旨を以て仏法を見るべからず」
仏教ではあまり「悟り」だとか「見性(けんしょう)」だとか「脱落」ということはいいません。
これらは「禅宗という宗旨の言葉」です。
しかし、私たち衆生の日常の生活(仏法)は、いつでも何処でも、何をしていても、その中(宗旨)に入っているのです。
仏教で言う「実相無相(実相は無相なり)」ということです。
「禅は仏法の総府なり」と道元禅師はおっしゃっています。
確かに「禅」は、本当に仏教の奥義です。
しかし、だからといって「禅だけ」を仏の教えの全てとは考えないで頂きたく思います。
広く仏教という物事中から「禅」見て頂かないと「仏教全体が見えなくなる」事があります。
ですから、「禅」というひとつの固定観念といいますか、固まった処から仏教全体をご覧にならないように、本当に「柔軟心(仏教で”にゅうなんしん”と読みます)」を以て「禅」を勉強して頂きたいと思います。
そのものがその物自体であり、別のものではないという事を「修證不二(しゅしょうふに)」とか「本證妙修(ほんしょうみょうしゅう)」とかいっています。
具体的には、「見たらみたまま、思ったら思ったまま、疑ったら疑ったまま」ということです。
そのことを道元禅師は「仏法を論ずれば一切現成(いっさいげんじょう)」とお示しになって居られます。
ですから、「全ての物事が仏法だ」ということになる訳です。
「仏の教えというのは仏の言葉で在る、戒律というのは仏の行で在る、禅というのは仏の心で在る」といわれております。
月を見てしまえば月も無くなるという事は、月も指(教え)も名前は違いますが「元は一つだ」ということです。
ですから、おシャカ様の教えに因って仏法を知(識)り、坐禅という「仏行(ぶつぎょう)」に因って自分自身が「仏そのものである事」を知(識)るということです。
知(識)ったならば、このもの(自分自身)を自由に使うことが出来ます。
その具体的は方法が「禅」という事です。
おシャカ様の「四十九年の説法、あるいは八万四千の法門」という、いわゆる教えというのは「月を見る為の指」であると、説いてきて居ります。
指にしたがって月を見る。
この月というのは天空に浮かんでいる月のことではありません。
「自分自身」という、本来の「法身(ほっしん)そのもの」です。
一切の教えというのは「月を見る為の指」なのです。
「指という教え」を」知っているだけでは月を見ることは出来ません。
必ず指に従って月を見る必要が生じて来ます。
ですから、指を見ただけで月を見たような気になってはいけないと言うことです。
月を見てその月に成ってしまうのが「禅」です。
「教え(月を見る指)」が無ければ月を見る事は出来ません。
月を見てしまえば指(教え)も必要では無くなるし、月もまた無くなります。
このことはよく自分自身で納得をしておいて頂かないといけません。
禅、即ち坐禅を抜きにした「禅」というのは何時から始まって何時に終わるというものではありません。
「日常生活そのものが禅」なのです。
ですから、「禅的な生活」とは間違いです。
「禅に生きる」でなければなりません。
私は現在「仏祖の禅」と「人間界の禅」が存在してしまっていると思っています。
別の言い方をすれば「禅(単を示す)」とは「距離(隔て)が無い」と言うことです。
「禅」とは「仏祖(おシャカ様を始め、おシャカ様の教えを信じて修行され覚者に成られた方々)の道」を自(みずか)ら歩み、歩んだ足跡も、自分も、万物と共に消滅する道です。
「自分自身そのものが禅」なのです。
「禅の修行」は「静中(じょうちゅう)の禅」と「動中の禅」に分けることが出来ます。
「静中の禅」とは、静かに坐っている状態をいい、坐っている以外の禅を「動中の禅」といいます。
間違えてはいけないことは、「禅と坐禅」があるということです。
「禅」は「単(たん)を示す」と書きます。
旧稿「異名同体(いみょうどうたい)」でも論じましたが、世の中では「真理(自分をも含めて一切の物」を多くの方々が色々な言葉を用いて説明しています。
私はおシャカ様の目醒められた様子を「今の事実(今の自己の様子)が真理そのものである」と皆さんに提言しました。
「法、道、禅、無、如是(にょぜ)等」は「本来一つの物(同じ事実)」を様々なお言葉で表現したものです。
本来、名付けようも無い物事なのです。
「真理そのもの(今の事実、今の自己の様子)」は把握出来たり、理解される物事ではありません。
このことを「禅宗」では「不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげべつでん)の法」と呼んでいます。
禅の修行というのは、自由自在な本来の自己の働きを抑え込んでいる自我の枠を取り除いて、「本来の自由自在さを真に会得していく」修行です。
それによって今、持っているものがさらに大きく使えるということです。
自分が真に自由自在に成れるか、不自由のままで終わるかは自らの実証にかかっているのです。
「みずから実証するよりほかない」ということですが、矛先をかえてみれば、ありがたいことに「自分で自分の法を実証できる」ということです。
他人に頭を下げ、頼み込んで実証してもらうという、そういう面倒さのないことです。
仏教の内容は大変魅力的です。
結果から説かれている為に、一切の問題の解答を必ず見つけることが出来ます。
しかし、問題の解決を仏教の中に求めてうなずいている限り(習学)、絶対に問題の根源には到達しません。
問題の根源とは、問題を生じさせているのは、自分自身なのだということです。
自分の解決なくして、只、病気の徴候のような末端症状を仏教という薬で、一時的に手当を行なっていては、薬害という中毒にかかることは必定です。
修行における致命的な誤りは、修行の到達点を誤るということです。
修行の出発点は修行の到達点を決定します。
ですから、無我、空、悟り、無、只、等を出発点とした修行では、必ず無我、空、悟り、無、只、等という名前が残ってしまうのです。
間違いのない指導者の教えの指導の元での修行が、肝要なところなのです。