活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

随感録30

2020年01月31日 | 随感

何故始めは「妄想」が無いのかというと、「妄想」とは「妄(みだ)りに想う」ことです。

 

「今の事実(先般の車の音)」は一番最初に想うといっても、想う以前に

ちゃんと有(在)るのです。

 

ですから手を付ける必要がないではありませんか。

 

妄想は起きてはいないのです。

それを「何」と言うから、それで妄りに想いが起きるのです。

 

それだから何も心配はしなくてもいいのです。

 

最初は妄想や煩悩は起きないのです。始めからそういうふうに出来ているのです。

 

物心が付いた時点で「此の物」を私したの煩いして苦労しているだけなのです。

 

人間(にんげん)が知(識)らないうち(認識する以前に)「此の物」は有(在)る

のですから「此の物」を私することは有り得ないのです。

 

それ以外に有り様がないのです。


随感録29

2020年01月30日 | 随感

人間(にんげん)の考え方の世界で判断しては、外から聞こえてくる

車の音はどこからどうしてそういう事が始まったのかは全く分かりません。

 

しかし、車の音が今、有(在)る事だけはよく分かっているのです。

 

これは人間(にんげん)の見解(けんげ)の世界とは違うということです。

 

それがしかも「今具わっている事実」なのです。

 

「具わっている事実」を見つけるには「考え方を止めなさい」ということなのです。

 

考え方を止めていれば全てのものは真っ先に有(在)るのです。

 

人が「問題にする(認識する)」以前に有(在)るのです。

 

もう問題にする必要がないのです。

 

それが「非思量」の様子です。

 

「円覚経」に「一切事に踞(こ)して妄想を起こさず」というお示しがあります。

 

始めは「妄想」というものは絶対に無いのです。


随感録28

2020年01月29日 | 随感

此れが「此の物」の今の「動き(働き)の真相」です。

 

ですから、考え方で如何しようというような必要がないのです。

 

そんなにうまく「此の物」は出来上がっているのです。

 

「出来上がっている道具立てのまま」に有(在)ればよいのです。

 

それ以外に有り様がないのです。

 


随感録27

2020年01月28日 | 随感

「虚迷(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」とのお示しがあります。

 

今此処で原稿を執筆していても外の車の音が聞こえます。

 

一体この音は何処で分かるのでしょうか。

 

考えたからこの車の音が有(在)るのではありません。

 

私たち衆生が問題にしてもしなくても車の音はそう有(在)るのです。

 

問題にしてもしなくてもそれ相応な「動き(働き)」が有(在)るのです。

 

「此の物」に何処でそういう車の音が分かる「動き(働き)」が行われる

のかと尋ねても分からないのです。

 

「自照」とはそれ自体の事です。


随感録26

2020年01月27日 | 随感

人間(にんげん)の世界に於いて生活に間に合わせるには、何かを「記憶」

しておいて使用(活用)することはそれはそれで構わないのです。

 

けれども「此の物」の標準になり、そういうようなものによって、求め

ようとしては駄目なのです。

 

そういうような意味に於いて、信心銘の「一切留まらず記憶すべき無し」

というお示しを考えれば前のことを「記憶」しておいて、次のものに間に

合わせようというようなことは必要ないということなのです。


随感録25

2020年01月26日 | 随感

「水鳥のゆくもかえるも跡たえて されども道はわすれざりけり」

有名な道元禅師の歌です。

 

絶対に「道」を誤ると言うことはないのです。

来た道は来た道です。往った道は往った道なのです。

 

多くの人が「観念の誤り」として、何かを標準にして、そうしなければ

本当の事が分からないのではないかと思っているのです。

 

「事実」はそうではありません。

標準を持たなくても或いは標準無しにでも私たち衆生は間違いなく生活は

出来るのです。

 

否「出来ている」のです。


随感録24

2020年01月25日 | 随感

初めは自分で怒っていたのです。

ところが、怒っていると思っていても実際には「怒り」はもう無いのです。

 

影を追って無いものを有(在)ると思っていただけなのです。

 

このように相手にしていくと、問題が起きるのですが相手にさえしなければ

問題はないのです。

 

「此の物」は「不思議な作用」をするのです。

それを誰も知(識)らずにいるのです。


随感録23

2020年01月24日 | 随感

一般の宗教というのは、みんな自分を捨てさせておいて何処かへ

人間(にんげん)を頼らせようとするものです。

 

宗教以外のあらゆる教えというものも、何処かへ連れて行って

その間だけどうにかその苦痛を和らぐようにする範囲のものでは

ないでしょうか。

 

「仏教」は違います。

仏教というものはその「苦痛の真っ只中」にいて、その「真っ只中のまま」

でその苦痛から離れ遠ざかる「道」なのです。

 

何も特別な事をするのではないのです。

 

人間(にんげん)の「怒り」で説明すれば、「怒り」というようなものが

出て来てもそれがそれなりにそのままであれば(怒りそのものに一切

手を加えなければ)一体誰が怒っているのか分からなくなるように成る

のです。


随感録22

2020年01月23日 | 随感

「心」というものに「浅い深い」はないのです。

「今の様子(事実)」に変わりはありません。

 

「心」はそういうふうに自由にどんなにでも働くように出来ているのです。

 

ところが私たち衆生はその働きがあまりにも微妙すぎるものですから

何処か遠方に尊そうなものが有(在)るのではないかと、尋ねる習慣がついて

いるのです。

 

それに操られているだけなのです。


随感録21

2020年01月22日 | 随感

駄目だといっても「今の事」を止めてはいけません。

自分でどうにかしようということではないのです。

 

ただ向かえばそういうことが有(在)るし、聞こえればそういうことが

有(在)るだけなのです。

 

「此の物」はそういう働きをするのです。

それを「無為無作(むいむさく)」といいます。

 

自分では知(識)らないのですが、自分で如何した訳でもないのに

そういうことが行われているのです。

 

それが「無為無作の様子」です。

「今の事実」がはっきりすれば全体がそういう生活に成るのです。

 

他に「道」があるのではないのです。