他の宗教には「自分で自分を救う」という教えは無いと思います。
ですから、他の教えに比べれば多少難儀といいますか、大変だという事があるかもしれません。
それだけ「大きなものを得られる」わけですから多少の我慢、努力や精進、そういうものがなくてはいけないという事です。
他の宗教には「自分で自分を救う」という教えは無いと思います。
ですから、他の教えに比べれば多少難儀といいますか、大変だという事があるかもしれません。
それだけ「大きなものを得られる」わけですから多少の我慢、努力や精進、そういうものがなくてはいけないという事です。
どうしても「自己の本性(ほんしょう)を見極める必要が在るのです。
「無自性(自分の無い事)」を自分自身で「なるほどそうだったんだな」という事を実証「理(理論)」においても証明する必要があるのです。
「自分で自分を証明する」という、その教えが仏教(仏道)です。
おシャカ様は夢から覚められた様子を四十九年間にわたり、説法して歩まれました。
それを後世の人たちが「仏の教え=仏教」と呼ぶようになったわけです。
当時のインドには九十六種もの宗教や哲学が在りましたが、それらの経典や思想などを一切邪魔扱いせず、ことごとく自らのものとして語られたので「八万四千の法門」が成り立ちました。
その法門(おシャカ様の教え)に従って私たち衆生も「宇宙のあらゆる事実(法、法則)」に「目醒める修行」を世さていただいているのです。
死というものが怖いという人います。
これは自分というものを持って、亡くなった事を想像するからです。
人の死でも同じ事がいえます。
この物全体が死ぬのですから、自分が死ぬという事が分かるはずがないのです。
いわゆる人の死は、死だけではありません。
私たち衆生は、今そうしているうちにも生死「しょうじ」と謂うものを、繰り返しているのです。
何時でも何をしていても、何処にいても生死を繰り返しているのですから、間違っても人の機能が働かなくなって体が冷たくなった様子だけを、人の死と思って頂かないようにしないという事になります
それでは何が私たち衆生の悟りの「縁」を妨げているかというと、それは「我見」というものです。
対象になるものの方に、善悪とか好き嫌いというようなものがあたかも存在していると思っているのです。
これを「我見」といいます。
私たち衆生の側に、分別する心というものがある事を忘れているのです。
ですから、私たち衆生側に分別心があっても目覚める事は出来ないのです。
おシャカ様のお示しに、一切のものはひとつのところに帰るというお示しがあります。
即ち一切のものは、自分に帰るというのです。
二千五百前の経験としてではなく、私達衆生もその事は、私達衆生一人一人の今の様子なのです。
私達衆生はおシャカ様と同じなのです。
私達衆生には既に備わっているのです。
私達衆生は其の事を実証しなければならないのです。
伝光録に曰く、「我と大地有情(うじょう)と同時に成道すと」。
そこの処で私達衆生が注目しなければならない事は、おシャカ様が大地有情と言われている事です。
おシャカ様は「私一人」が悟りを開いたと、「私一人」が自分の本当の姿を悟ったと、「私一人」がそういう状態に成ったという事では、ありません。
全ての衆生と共に、然ういう目覚めがあったといっているのです。
それでなければ「本当の目覚めということは有り得ない」という事なのです。
私達衆生は、おシャカ様の悟りと同じ結果に在るのです。
その事実を本当に知る別の言葉で言えば、結果と一つに成るという事が、私達衆生の修行の課題なのです。
誰でも真面目に「法(道)を求めている」のに違いありません。
それですから「今一つその求め方」という物は、自分の考えで如何にかしようとする事を行ってはいけないのです。
道元禅師は、そういう事を述べている居られます。
自分の考えで如何にかしようとする事を、行ってはいけないのです。
自分の考えを使って修行しようとするそういう態度というのは、迷いの道ですよと、いっています。
そうして「環境からこの物へ入って来る、そういうあり方は悟りの道ですよ」と説いています。
「真実」といって何処かへ求めて行くから、そういう「追いかける心」を、止めなさいといわれるのです。
只、「この物自分自身」が「此の物自分自身」で在るのです。
そういう「追いかける心」を、止めなさいと謂われるのです。
そういう事をおシャカ様や歴代の覚者は、教えているのです。
他へ求める事を一切止めれば善いのです
覚者曰く、「真を求むる事を用いざれ、ただすべからく見(けん)を息(や)むぶべし」。
しかし、みんな「真実」を求めたいのではないでしょうか。
「真実」を求めたいから「修行(坐禅)」をしているのではないのではないのでしょうか。
それなのに「真を求めるな」とは随分「無鉄砲」なお示しです。
如何して此の様な事を言うのかと申しますと、「私達衆生が皆真(しん)」だからです。
「真で無い物・真実で無いのは一つも無い」のです。
どうして此の様に言うのかと申しますと、「私達衆生皆真(しん)」だからです。
「真でない物・真実でない物」は、一つも無いのです。
それを私達衆生は知らないのです。