「慚愧(ざんき)」とは、うえの「慚」の字は「内慚」といい、下の「愧」の字は
「外愧」といいます。
内の慚と外の愧という事です。
「慚」は自分の心に恥じらうことです。
自分の心で恥じるというのは「身口意(しんくい)」が皆一々人に対してどうであろう、
人に対して済まぬことがあってはならず、天地に恥じるようなことがあってもならず、
自分の心に能く問うてみて、心に安心が出来る様に心に問うて研究してみるのが
「内慚」です。
「慚愧(ざんき)」とは、うえの「慚」の字は「内慚」といい、下の「愧」の字は
「外愧」といいます。
内の慚と外の愧という事です。
「慚」は自分の心に恥じらうことです。
自分の心で恥じるというのは「身口意(しんくい)」が皆一々人に対してどうであろう、
人に対して済まぬことがあってはならず、天地に恥じるようなことがあってもならず、
自分の心に能く問うてみて、心に安心が出来る様に心に問うて研究してみるのが
「内慚」です。
「大智度論」の中に「初心後心異相ある無し」とあります。
「初心」とは若い者の心、「後心」とは老人の心、共に異なる所はないというのです。
唯努めて「精進」すれば「仏道を成ずる」のです。
「仏道を成ずる」には若い者も、老人も異なる所はないのです。
「一生懸命」に修行さえすれば「仏に成れる」というのであります。
「成仏」とは「今の一心」「今の事実」ということです。
その「一心」と「仏心」とは別にものではありません。
「華厳経(けごんきょう)」に曰く、「心常に世心と和合せざるを名づけて
精進となす」と。
「世心」とは世の中の心で、「世の中の心」とは「妄想」ということで
「煩悩」といいます。
又、世の迷った働きを「世心」といいます。
そういう「世心」といっしょにならない、「精進」とは「専心一意(せんしんいちい)」
ということで、聴く時は聴くという一心にならなければ解りません。
「専心一意」に成って初めて解るのです。
それが「真心(まごころ)、道心」です。
その心で聴き、その心で教える、その心が聖人(せいじん)の心です。
「おこたらず 行かば千里の果も見む 牛のあゆみの よし遅くとも」という
道歌もあります。
ですから、何でも出来る出来ないというのは、勉強の「精進」が足らない
からです。
何事も「志」がなければ出来ません。
「為せば成る 為さねば成らず 成るものを 成らぬは己が為さぬなりけり」
「精進」の「精」という字は、米が青いと書きます。
「米」はもとは玄いのです。
その玄い米をよく搗くと白くなり、白いのを更に搗くと「青い様な色」になります。
それが「精」の字で、下は「進む」という字ですが、米を搗き白くなって
青くなるほど修行して進むということです。
おシャカ様は「遺教経(ゆいきょうぎょう)」の中で「若し勤めて精進すれば
事として難きものなし」と。
「難きもの」とは出来ないという事で、出来ないものは無いという事です。
その取り除くということは、「滅(なくする)」ということです。
ですから「煩悩」がなくなれば人は安楽になるというということは「道理」
として当然のことです。
その楽に成る道(みち)が「道(どう)」なのです。
私たち衆生はその「道(みち)」を修行することによって必ず安楽に成ることは
間違いないと仏教の論書には説明されている訳です。
「苦の根源」を除くには、一体どうしたらいいのでしょうか。
そのことについて、おシャカ様は「四つの真理」を示して居られます。
「四諦(したい)という苦、集、滅、道」です。
日本では「貪顚痴(とんじんち)」、即ち貪りと怒りと愚痴です。
これを「煩悩」と言っています。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の「苦・集」のことですが、よそへ行くと
必ずしも貪顚痴のみが「煩悩」ではないというようにも説明されています。
しかし、ここは日本ですので貪顚痴を「煩悩」として説明させて頂ければ
この集まって来ている「苦集(煩悩)」を取り除きさえすれば、人は安楽に
なるということを「道理」として分かって頂けると思います。
「仏教」というのは、私たち衆生がすでにきちんとした、迷えないような
「基本体」であることを知ってもらう教えです。
ほかに尋ねることはないのです。こんなに確かなことが他にどこにあるで
しょうか。
「仏教」とは、今ここに在る物を在る物によって自分で「立証(実証)」
出来る道です。
一番手付かずで全部道具が揃っているのです。
迷う道具も揃っていますが、悟る道具も皆揃っているのです。
ですから「この道具立て(六根)」のまんまに行ずれば「自然(じねん)」に
自分で「自覚」が出来る様になっているのです。
私たち衆生は、自分が自分であることに間違いないのに、私が一番不思議
なのは、多くの人が自分自身のことが自分自身で信じられないということです。
信じたいけれども信じられないのではないでしょうか。
こんなに確かな「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」が自分にあって、自分で
使いつつあるほど確かな自分であるのに、これをどうして自分で信じて生活
出来ないのでしょうか。「活かして生きていけない」のでしょうか。
ですから、「本当の自分とは」と、何処かへ尋ねて行こうとするのです。
どうしたら「本当の自分」が見つかるんだろうと思ってとんでもない方向に
進んで行こうとするのです。
それは、それをはっきり指示する教え(指導者)がないからです。
単純に坐ればいいのです。
いろいろな仕事をしている人は、実際に身体を動かしている時に「損得」
なんて考えてはいません。
結果として損をした。得をしたということだ出て来るだけです。
ですから、「損得」というのは同じ関係にある訳です。
損をするということは、そのように損をしなければならない道理(これは因縁です)
に合ったことをしているから損をしたのです。
損をすると、なんとなく「こんなはずじゃなかったな」ということが起こる
ということは、本当に仕事をしていない人なんだと言わざるを得ないのです。
得をした時だけ「自分の仕事がうまくいったから」といわれるのですが、
そうではありません。
「損得」というのは、全く同じものなのです。
ですから損をしても喜ばなければならないし、得をしても喜ばなければ
ならないということは「当然のこと」なのです。