活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

信心脱落脱落信心2

2021年12月31日 | 法理

道元禅師が如浄禅師「中国での師匠」の下で、本来の自己に目覚められました。

 

其の目覚めの因縁は、隣りの修行僧が居眠りをしていたのです。

 

然うすると如浄禅師は、其の修行僧の肩を靴で叩いて「参禅は信心脱落である、お前の様に居眠りをしていてどうなるか」と言われたのです。

 

其の時如浄禅師のお言葉を聞いて、道元禅師は本来の自己に目覚められました。

 

然うして如浄禅師に、自分は「自分は信心脱落をして来ました」と自分の状態を話しました。

 

然うしますと如浄禅師は、「そうじゃない其れは違う」と斯う言いました。

 

「脱落信心だ、信心脱落は、いけないんだ、元々脱落している身心でないといけないんだ」と、斯う言われました。

 

其れに気が付いた道元禅師は、次のようなお言葉を述べられたのです


信心脱落脱落信心1

2021年12月29日 | 法理

此の物「自分自身」は、今の私たち衆生の考えている「思っている」体と言い精神生活と言う物から外れているのです。

 

ですから此の物自分自身を、無くする事ではありません。

 

現在のみんな自分を問題にしている物から懸け離れた生活と言う物が有(在)ると、此の様に有(在)るのです。

 

知らず識らずの内に一つに成れ、其れで次の事を捨てなくても次の事が、きちんと入って来るのです。

 

何故なのでしょうか。

 

其れは初めから「信心脱落・脱落信心(しんじんだつらく・だつらくしんじん)」しているからです。

 

然う云う事は矢張り自分を捨ててみないと、はっきりしないのです


真理2

2021年12月27日 | 法理

仏教の教えの根本は、実相無相「じっそうはむそうなり」です。

 

「無相」とは、相「姿・形」が無いと言う事です。

 

「無の相」と言う事です。

 

ですから私「人」と言う魂「霊」即ち実体は、認めようにも認めようが無いのです。

 

ですから私たち衆生は、素直に其のまま受け入(容)れれば善いのです。


真理1

2021年12月25日 | 法理

真理とは、元々自然「じねん」界実相を指し示すお言葉です。

 

自然「じねん」と読む場合は、仏教語です。

 

法「道」は、何時でも何処でも何をしていても自分が自分を認識する以前から、事実として存在しています。

 

此の事を私は皆さんに「今の事実」と呼んで提示しています。

 

おシャカ様の教えは、おシャカ様と言う人「人」が創作した教えではありません。

 

おシャカ様の教えは、おシャカ様と言う思想から生まれた教えでもありません。


新三法印まとめ4

2021年12月23日 | 法理

つまり「不」とは、「自己の無い事」とかを言います。

 

「そのまま」と、観れば良いのです。

 

ですから、「不知」は「知のまま」「不識」は「識のまま」因縁有(在)るのみなのです。

 

因みに「非思量とか非空」とか、云う時の「非」と云う文字も、「不」と云う文字と同様に、打ち消しの助字ではありません。

 

「非」は絶対「自己の無い事」と云う意味です。


新三法印まとめ3

2021年12月21日 | 法理

私たち衆生は、何時でも何処でも何をしていても「縁」と一つに、成っているのです。

 

しかし、然う云う状態を知(識)る事は出来ません。

 

此の物を自分自身に見える聞こえる等の然う云う働きが、有(在)る事は何も知(識)りません。

 

此れを「不識」と云っています。

 

「不」と云う文字は、、打ち消しの助字ではありません。

 

「不」は絶対と云う意味です。


新三法印まとめ2

2021年12月19日 | 法理

自分と云うのは、何時から自分に成ったのか、自分で自分に問いかけても分かりません。

 

誕生日さえも知(識)りません。

 

全部人間(じんかん)に因ってそのように教えられて来たのです。

 

自分で考えて創ったと云うものは、一つも無いのです。

 

私達衆生は人間「じんかん」に因って育て上げられ「知識を得」て来た自分を、本来の自分で有(在)るかのように「錯覚」して振る舞っているのです。

 

「人間(じんかん)」とは、新字源に拠れば漢文では原則として、人の意と区別して「じんかん」と読むと記されています。


新三法印まとめ1

2021年12月17日 | 法理

自分と云うのは、何時から自分に成ったのか、自分で自分に問いかけても分かりません。

 

誕生日さえも知(識)りません。

 

全部人間(じんかん)に因ってそのように教えられて来たのです。

 

自分で考えて創ったと云うものは、一つも無いのです。

 

私達衆生は人間「じんかん」に因って育て上げられ「知識を得」て来た自分を、本来の自分で有(在)るかのように「錯覚」して振る舞っているのです。

 

「人間(じんかん)」とは、新字源に拠れば漢文では原則として、人の意と区別して「じんかん」と読むと記されています。


新三法印7

2021年12月15日 | 法理

本来成仏と云う語源は、円覚経(えんがくきょう)に、「始めて知る衆生本来成仏なることを」との、お示しに見出せます。

 

広辞苑に拠れば、万物「ばんもつ」一如の見地に立てば衆生もそのまま仏であると謂う事を、はっきり記されています。

 

「今の事実」を、見極めれば、「実相は無相であり、不知不識生であり、本来成仏なのです。


新三法印6

2021年12月13日 | 法理

道元禅師は、正法眼蔵の中で意訳すれば、絶対的な真実の瞬間は、我も知らず誰も識らないのであり、汝も予期せず仏の眼でも見ることが出来ないし、まして人間「にんげん」の考えでどうして、推測することが出来るであろうかと、云う事です。

 

何んと不知不識生に対する、親切な解釈ではないでしょうか。

 

不知不識生とは知らず識らずに生ずるなりと、云う事なのです。

 

因縁生も、知らず識らずに因縁より生ずると、云う事です。