例えば、多くのひとが「法の消滅」ということを聞くと、「何故、尊い仏の法を捨てなければならないのか」と、常識で測って奇異な感じを受けます。
そうして、おシャカ様が仏法を説かれ、一切の結論を始めに明らかにされたために、多くの人が仏法に執着し、結論に滞り、「最初に一切の答えを知(識)ってしまうために、問題意識が生じにくい」と言われます。
はたして、そうでしょうか。
むしろ逆であろうかと思います。
例えば、多くのひとが「法の消滅」ということを聞くと、「何故、尊い仏の法を捨てなければならないのか」と、常識で測って奇異な感じを受けます。
そうして、おシャカ様が仏法を説かれ、一切の結論を始めに明らかにされたために、多くの人が仏法に執着し、結論に滞り、「最初に一切の答えを知(識)ってしまうために、問題意識が生じにくい」と言われます。
はたして、そうでしょうか。
むしろ逆であろうかと思います。
人も法も全て放してしまって、智慧も手段も方法も全部捨ててしまい、仏道も無ければ、禅も無ければ、法も無い、「本当の元の木阿弥の何も分からなかった自分」に戻らなければなりません。
「修行する」ということは、何かを得る為ではありません。
「捨てる修行」に心がけて頂かないと、「坐禅」というのが「物知り」になって「禅談、法談」で終わってしまいます。
多くの場合「人我(にんが)【自分】」は取れても、「法が残る」という事があります。
こんな事は有り得ない事ですが、「修行をする」と自分というものは無くなったと思っても「法」というものが残るのです。
このことを「信位」といっています。
「人(にん)」が無くなれば、「人、法」共に無くならなければいけないのですけれども、立派な者、仏らしい者、菩薩らしい者が残るのです。
このことを「人は無くなったけれども、法が残る」といいます。
「法(道)という認識以前の事実に目醒める修行」は、一般的には「分別や判断を離れた世界」へ向かうことですから、日常の常識は到底及びもつかないのです。
これは難しい問題ではなく、人間の尺度で測っては誤りやすいということなのです。
禅の修行においては、「修行の道理」として「自己に参禅する」という道理をよくよく学ぶべきです。
「無我に成ろう、仏に成ろう」とする、その自己を忘れることが「禅の修行」です。
ですから、自分の思い通りの坐禅をしても何にもなりません。
「本当の自己」に目醒めれば自己が真に自由自在になり、今持っているものが更に大きく使えるようになります。
禅の修行は「自己を忘れて、本来の自己に成る」ことによって一切の問題が解決する道です。
自己が本来の自己に成れば、自己とは何ものか、真実とはどういうものかということを一切問う必要がなくなり、「迷いや悟り」もなくなります。
「仏法(仏道)」という支え、坐禅という考えが本当に要らなくなった処が、おシャカ様のお示しになられた「真の仏法(仏道)」であり、インド、中国、日本へと伝えられた坐禅です。
ですから、くれぐれも、「修行の道理」を自分の常識の範囲内で図らないように注意していただかなければなりません。
物を忘れ、忘れた物を、忘れるという事は本当に大変な事です。
これは「悟後の修行」とか「悟前の修行」とかいうものではありません。
もともと修行は不用(不要)の事だからです。
「迷いが有(在)る」というのが間違いなのですから、その間違いの中で「迷いを無くした」というのは「二重の間違い」になるわけです。
しかし、それに気が付かないと間違いだという事も分からない訳ですから、一応「悟りを得た」という事がないと、本当のことがよく自分の物に成らないという事は当然のことです。
修行が必ず不用(不要)に成る時があります。
不用(不要)というのは、何時でも何処でも何をしていても「法(道)」というものの中に居るという事です。
ですから、「人は死ぬ迄修行だ」という人がいますが、それは間違いです。
「人」には死というものはありません。
「人」だけではありません。一切の物には始めがありませんから、終わりも無いのです。
「法(道)」を究めれば終わりが無い事と同じ事です。
そして、「一切の跡形が無くなる」という事でないと、本当に「法(道)」を究められた事になりません。
これから何かに成ろう、どうにかしなければならない、というような事は一切忘れる事です。
すべての事を忘れ、「忘れた物をもうひとつ忘れていく事」を「修行」といいます。
何か分かるものが有(在)って修行するという事は、本当ではありません。
同時に、分からないものが有(在)って修行するという事も本当ではありません。
「只ひたすら」に今やらなければならない事を一生(一所)懸命になってやる、それしかありません。
このように「只 を忘れた只の生活」をすると「今」という事がよく分かると思います。
もともと捨てる物も得る物も無いのですから、「今を承当(じょうとう)する」以外にありません。
「承当」とは「そのまま受け取る、肯(うけが)う」という意味です。
修行が何かの目的の為の手段や方向になってしまっては大変な誤りです。
よく、指導者が言う、「只 修行しなさい」という言葉は、「結果から見た(結果に至った人が発した)」言葉です。
従って、これから修行する人が自ら「只 という枠組みの中」に入って、只 修行していたのでは、これは「仏道修行」でも何でもありません。
「その只」を一度忘れてみる必要があるのです。
今、私たち衆生の目の前に見える物、あるいは聞こえてくるものは全て「只」というような在り方の物ではありません。
従って、「只 という枠組み」を外す事によって「本来の只」という状態に戻る訳です。
それが「今の事実の様子」です。