活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

心事未了

2021年05月31日 | 法理

インドで生まれた仏教は海や陸を渡って、日本古来の八百万(やおよろず)の神々の信仰と結びついて、今の日本仏教が作り上げられました。

 

そして何時ごろからか人が亡くなると僧侶が葬儀を執行するという風習が醸し出されてきたのです。

 

もちろん、葬儀を行う事も仏教を布教していく上に於いて大切な事ではありますが、道元禅師が「生を明らめ死を明らむるは、仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり」とお説きになっているように「法(真理)」を参究し尽くして「死んだら何処へ行くのか、今まで生きていた人がなぜそうなるのか」という事をはっきりと説き示すことが出来なければ本来のお寺の機能は果たせなくなり、「仏法僧」と言う「三つの宝」が無くなってしまうのではないでしょうか。

 

所が現今では、本末転倒してしまって「僧侶を育成する修養機関」に於いても寺院を護持する為の「教育機関」に成ってきているのです。

 

「修養機関で修行した者に与えられる終了証書」を見ても、明治から大正にかけては冒頭に「(何々)僧堂ニ安居(あんご)シ 心事未了(しんじみりょう)ト雖(いえども)操行(そうごう)過失ナシ依テ之ヲ證明ス【見性とか仏性を見るという心事は了っていないけれども、行いや礼儀には過失が無かったから修行したことを証明します】」という文言(もんごん)が書かれていたのです。

 

ところがいつの間にか「心事未了」という文言が証書から消えて無くなりました。

 

当時は未だ「心事を極める事」に関心を持った人も在ったというのに、いったい何時頃から何故「心事未了なりと雖も」という文言が消えてしまったのか。

 

先般の「実証」の項目と並んで、そこをもう一度能く参究する必要があるのではないでしょうか。


大事

2021年05月29日 | 法理

全ての出来事は、今現在起こるべくして起こっている、そしてその認識をする事が大事

 

「そのまんま」を受け入れることが大事

 

ここに批判や評価を持ち込まない事が大事

 

そして次に調和がとれていないと感じる事や、ゆがんでいると感じる事を修正していく事が大事

 

もしその人の時代に方向修正が終わらなくても、次の世代がそこから始められるようにする事が大事

 

衰えを傍らに一歩一歩大地を踏みしめながら進み始めた時こそが「真の人生の収穫期」となる

 

自分が腑に落ちていないのに、それがあたかも自分のものであるかのように話す事には注意が必要

 

「無知の知」自分が実感していない事を知ったふりしない事が大事

 

知識が智慧に成っていない事を知(識)る事が大事

 

只(ただ)言葉を拝借して人々の目醒めを待つものが先輩の役目なのです

 

諦めずに期待しないで唯(ただ)務める事が大事

 

不尽


長者窮子(ちょうじゃぐうじ)

2021年05月27日 | 法理

能く分かっていれば分かっている程に疑いの煩悩「疑煩悩(ぎぼんのう)」が強く出て来るものです。

 

そこのところはおシャカ様の経文にも「自分が大変な宝を持っていながら宝探しをしているようなものだ」と、

「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」という故事がたとえとして説かれています。

 

物語的なものとしては分かっても、中中「なるほど自分自身が長者であった」という事にきがつかないものです。

 

あるいは、おシャカ様が四十九年間「衆生本来仏である」とお説きになりましたが、それがどうしても信じられない、これが人間(にんげん)がこの世に出て来てからずっと相続されている「疑煩悩」というものです。

 

ですから、いくらおシャカ様がそう言われても、この世の中には自分以外にもっと尊い物があるだろうという事で、焦って他を探し回ってしまうのです。

 

ですから、単純にそのものに成り切って頂きたいのです。

 

そうすれば諸々の「道(法)」と言うのは「無我」であり、もちろん自分も諸々の「道(法)」の一つですから既に物と一体に成っているという事がよく分かるのです。

 

「自分と物が一体に成っている」ということは、「一切の物が自分だ」ということです。

 

今までは見聞覚知(けんもんかくち)するものだけが自分だと思っていたけれども、そうではない大変大きな自分に生まれ変わることが出来るのです。

 

それを知(識)る事が「道(法)を求める、そのものに成る」修行の根本ではないでしょうか。


天真にして妙なり

2021年05月25日 | 法理

「天真にして妙なり」というお言葉が在ります。

 

「天真」とは「飾らないそのまま」という意味です。

 

未だ「道」を明らめる事が出来ない人は分かろうとして、それだけ飾ろうとするのです。

 

分からなければ分からないままが、一番「天真」なのです。

 

「妙」というのは、言いようがないという事です。

 

自分自身を振り返ってみれば「只」でなければならないと思いながら、どうしても「天真になれない」ということが誰にでもあると思います。

 

「花さかぬ 身は静かなり 柳かな」という道歌が在ります。

 

花を咲かせようと思わない、悟ろうと思わない、安心しようと思わない、これ以上の「天真」はないと思います。

 

自分と言う者さえ認めなければ、心意識の「意」と言う形は有(在)りません。

 

ですから物に応じて自由に変化する事が出来ます。

 

「心」は千変万化して、しかもその跡形も無くそのものに成っているのです。

 

「心」と言う物は、元元自分の内にある物でもないし、外にある物でもないし、中間にある物でもありません。

 

「心」は本当に「不思議な存在」です。


獅子身中の虫

2021年05月23日 | 法理

「獅子身中(しししんちゅう)の虫」というお言葉があります。

 

辞典では下記のように説明しています。

 

「仏弟子でありながら、却って仏法を謗り、仏法を滅する悪比丘のこと、また内から生ずる禍いのたとえ、獅子が死ぬと他獣はこれを食わないが、ただ獅子の身中に自ら虫を生じてその死骸を食うということから、仏の正法は他から破戒させることは出来ないが、本来仏法を信奉するはずの比丘が自らこれを破壊させることにたとえる」と。

 

ですから仏教のお坊さんは、外から見れば落ち着きはらって如何にも生死、煩悩、或いは俗世間で言う所の欲を超越したかのごとくに見えても、心中はなかなか穏やかではなく、煩悩がちらちら動いているものです。

 

「分かったという事と、体得したという事」は全く無関係です。

 

道理が分かっているので一応散乱した心を抑える事が出来ますが、それは非常に無理があるということです。

 

「無理をしている」ということです。

 

そういう状態では「本当の悟り」は甚だ縁遠いということです。

 

しかしそういう「禅の病を持った人」が甚だ多いと思います。

 

そういう人は「法に住している事で、自分が空の状態に成っている事を自分自身で良しとしてしまいがち」なのです。

 

そういうことは全部「法という物に立っている(認めている)自分が在る(残る)」ということに気が付いて頂かなければなりません。

 

また同時に「法を知(識)って、法を使うという事」を知(識)って来るので「二重三重の誤り」になってくるのです。

 

 

 


放下著

2021年05月21日 | 法理

ある修行僧が師匠に尋ねました。

 

「私はすっかり物事を捨てて、もう捨てる物事が無くなりました、これから如何したら宜しいのでしょうか」と。

 

そうすると「放下著(ほうげじゃく)」と師匠は答えました。

 

「放下著」とは「無いという物を捨てなさい」という事です。

 

そうすると修行僧がまた、尋ねました。

 

「無い物と如何して捨てる事が出来ますか」と。

 

師匠が答えて曰く、「担取(たんしゅ)し去れ」と。

 

「担取」とは、担いでいるという事です。

 

ですから「そんなに捨てる事が嫌いならば担いでいなさい」ということです。

 

常識から考えてみると、「捨てる」ということと、「担いでいる」という事は全然逆な事です。

 

しかし「実相は無相である」ということから言えば、「捨てる」ということも「担いでいる」ということも「物その物」には「捨てる物も担いでいる物も無いはず」です。

 

別の言葉で言えば、「担ぐ自分と捨てる自分というものも一つの実相の上の働き」ですから、それは同じ事になる訳です。


是非を管すること莫れ

2021年05月19日 | 法理

「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」というお言葉が在ります。

 

物事を能く知(識)っている人は、「善悪を思わず」と言えば、善い事悪い事と言うのは「思ってはいけないだ」と理解してしまいます。

 

又、「是非を管すること莫れ」と言えば「他と比較してはいけないんだ」と考えを先に立ててしまいます。

 

別の言葉で言えば、「法」を求めて行く上には、「思ってはいけないんだ、考えてはいけないんだ」と言うように「思いを先に立ててしまう」のです。

 

そうしたら何が残るのかというと、「考え(思い)を出した自分」が残っているということです。

 

それだと、何時まで経っても「そうしてはいけないんだ、そうあるべきだ、そうすべきだ」というものを先に立てて、そして自分をそれに沿わしていこうとします。

 

それでは「発心(ほっしん)が正しくない」ということです。


一念三千

2021年05月17日 | 法理

無常ということは非常に有り難いことです。

 

「一念三千(いちねんさんぜん)」と言って、一念の上に三千回もの移り変わりが在ると言われています。

 

ですから積んでは壊してを行きつ戻りつしている事は決して無駄な事では在りません。

 

「それがそのまま仏道」ということなのです。

 

それを無駄にせず行きつ戻りつという事を油断しないで務めることです。

 

「つまらない事をやっている」という気を起こさず、これも「仏道を成就する為の一つの修行(功夫)だ」と言う風に考えて務めて頂きたく思います。

 

絶えず自分の求むべきものは自分の有り様なのだ」と何時もしっかり持っていないと、いろんな「縁」が素通りしていくことになります。


大通智勝仏

2021年05月15日 | 法理

「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」という仏様は、長い間一所懸命にお坐りになられましたが、如何しても仏道を成就する事が出来なかったというお話が在ります。

 

何故そうだったのかと言うと、「今の外に仏道を求めた」からです。

 

「坐禅が手段、方法」になったからです。

 

「坐禅は坐禅なり」。そう成るように務めなければなりません。

 

「今です、今出来ないと、又次の瞬間も出来ない」という事になります。

 

「今、今」です。

 

前後を見ずに徹底して務めて頂きたいと思います。

 

もう、それだけなのです。


相続

2021年05月13日 | 法理

「愚のごとく魯(ろ)のごとし」というお言葉が在ります。

 

他から見たら何をしているのか分からない、「修行」らしい事を一切していない人に成って「修行を相続していく」という事は大変な事です。

 

「相続して行く」という事は「続けていく」という事です。

 

「修行」というものは、「やりなさい」と他から強いられて行うものではありません。

 

この事は出来そうで中中出来ない事です。

 

然して「平常心是道だから何をしていても坐禅だ」という考えに堕ちやすいものです。

 

「坐禅の嫌いな人」が「何をしていても坐禅なのだから、ことさらに坐禅をしなくても善いじゃないか」というような事を言い出すのです。

 

然しそれは間違いです。

 

何故ならば、何をしていても坐禅ならば、坐禅も「何をしていてもという中の一つ」ですから、坐禅をしようと、横になっていようと、どんな事をしていても、全てが「何をしていても相続でないといけない」という事です。

 

この事は非常に大変な事ですけれども、そういう努力が必要だという事です。