活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

新三法印「今の事実」1

2021年11月30日 | その他

三法印とは、三つの「法印」と言うことです。

 

即ち「仏法の印(しるし)」です。

 

仏教と他教を区別する特徴的標識です。

 

私は現代に於ける新三法印として、実相無相(じっそうむそう)、不知不識生(ふちふしきしょう)、本来成仏(ほんらいじょうぶつ)を、提示させて頂きます。

 

先ず第一の実相無相「じっそうむそう・実相は無相なり」と言うのは、おシャカ様が摩訶迦葉(まかかしょう)に「法」を伝えた時に発したお言葉です。

 

「実相」とは、本当の相「すがた」ということです。

 

本当の相「すがた」は、「無相」なのです。

 

相が無いので、認める事が出来ないのです。

 

其れを私は、事実として認めるべきものは何もありませんと、言っているのです


三法印まとめ2

2021年11月28日 | その他

一刹那に九百回の生死(生滅)をするのですから、「我」というものを何処に求めることが出来るのでしょうか。

 

諸行無常のお陰で私たち衆生は世界を我が物にすることが出来るのです。

 

「我」というものが無ければ皆、我が物なのです。

 

向こうに相手を認めているから六尺の体だけになってしまうのです。

 

「諸法無我」を本当に覚ったものを「涅槃寂静」というのです。

 

一寸でも自己を認めると相手を認めてしまいます。

 

相手があるから”ケンカ“をするのです。

 

諸行無常が分かり、諸法無我が分かれば”ケンカ“の仕様がないのです。


三法印10

2021年11月26日 | 法理

三法印を実証する為に暫くおシャカ様や歴代の覚者の教えを借りて、教えに従って修行すという事が、生じて来るのです。

 

積んでは壊し積んでは壊ししていることそれ自体が、悟りなのです。

 

積んだり壊したりしているその後に、自分の求めているもの「悟り」が、実現すると思うから間違いなのです。

 

何故ならば、別の言葉で言えば、自分の様子を観てください。

 

皆「積んだり壊したりしているその事自体、今の事実」ではありませんか。

 

何時でも何処でも何をしていても、事実「結果」の中に居るではありませんか。


三法印まとめ1

2021年11月23日 | 法理

私たち衆生は、朝から晩まで変化しつつあるのです。

 

諸法と共に生きたり死んだりしているのです。

 

一刹那には、九百回の生死「生滅」があると言われています。

 

此れを諸行無常と言います。

 

諸行とは、諸々の働きです。

 

私たち衆生は、其の無常のお陰で働くことが出来るのです。

 

子供が大人に成長するのも無常です。

 

無常でなかったら子供は何時も子供でいなければならないのです。

 

病人が治るのも、皆無常のお陰です。

 

教育は無常の応用です。

 

無常と言うのは無我であり諸法は無我なのです。


三法印9

2021年11月21日 | 法理

涅槃寂静「ねはんじゃくじょう」とは、私達衆生「わたしたちしゅじょう」の今の状態を言っています。

 

そして、今の涅槃寂静の状態で初めて仏教「仏道」で言う処の修行に入るのです。

 

悟りとか見性「けんしょう」と言うのは、坐禅三昧中にある一つの通過点なのです。

 

現今ではその「通過点」をほとんど見落として必要ではない事のように教えて居る指導者もおりますけれども、それは大変な誤りです。

 

その通過点を通過した後に「悟り(見性)の病」を落とし、「法(道)の病」を落とし、いよいよ本当の涅槃寂静の状態で仏道修行が始まると言うことです。

 

此の事を(禅)では「本証妙修(ほんしょうみょうしゅう)」とか「修證不二(しゅしょうふに)」と言う言葉で表現しています。


三法印8

2021年11月19日 | 法理

仏教ではその様な様々な人の思惑さえも、仏性「ぶっしょう」と名付けています。

 

たまたま我見「自我の考え」や法(道)の見方や考え方を立てて、いろいろ散乱をしているような状態であったとしても「縁」に触れて一遍に其ういう事が失くなり、「元元本来一つの物であった」と気付く時節があります。

 

其れを禅では、「見性(けんしょう)」とか「目醒める」という言葉で表現しています。


三法印7

2021年11月17日 | 法理

ヘラクレスは「万物(ばんもつ)は流転する」と、言いました。

 

然うしますと、「流転する」と言う其の物を眺めて居る「我(私と言う中心に成る人)」が有(在)ると、いうことになります。

 

眺めて居るだけならばまだしも、坐禅を例に取れば、自分の坐禅の状態を善くしようとか、或いは切り捨てようとか、自分の考えで自分を眺めて居るものを、処理「解決」していこうとすれば、此れは最も悪い事になります。


三法印6

2021年11月15日 | 法理

諸法無我の「我」と云うのは、私たち人間「にんげん」に付けた固有名詞ではありしません。

 

諸法(一切の全てのもの)は無我であるという事です。

 

別の言葉で言えば、中心となるべき存在は、何も無いと云う事です。

 

坐禅を例に取りますと、今日坐禅は集中出来たと、言うと、自分の状態を、常に眺めて出来居る人が有(在)ると、いう事になります。

 

しかし然う言う事は、本来出来ない事をやっていることに成るのです。


三法印5

2021年11月13日 | 法理

何処も他所を探す必要はないのです。

 

自分の様子を観てください。

 

「皆、自分の事実」ではありませんか。

 

本当とか、嘘と云う事の無い程に「自分の事実」として有(在)るのではないでしょうか。

 

此の事を自分自身でなるほど此の事かと、承知することです。

 

此の事を「法(道)」の理論として、よくよく理解して修行をして頂きたく存じます。


三法印4

2021年11月11日 | 法理

度度申し上げておりますが、分からないと言う法「道」も有(在)ります。

 

全く信じられないと言うのも、形の変わった法「道」です。

 

全部法「道」の中のことです。

 

別の言葉で言えば私達衆生「わたしたちしゅじょう」は、「何時でも何処でも何をしていても、事実の中に居る」と云う事です。