「不回互(ふえご)にして成ず」とは、物は皆いちいち独立して外からの何の交渉も、回互も入る隙間も無いはずです。
見る時は、見るばかり。
聞く時は、聞くばかり。
「人」も「境」も認めようのないはずのものです。
不思量の故に不回互なのです。
決していちいちの独立で他の干渉を許さぬものです。
この「成」は成立、または成就の義で、人格的には「成仏」の「成」ということです。
「不回互(ふえご)にして成ず」とは、物は皆いちいち独立して外からの何の交渉も、回互も入る隙間も無いはずです。
見る時は、見るばかり。
聞く時は、聞くばかり。
「人」も「境」も認めようのないはずのものです。
不思量の故に不回互なのです。
決していちいちの独立で他の干渉を許さぬものです。
この「成」は成立、または成就の義で、人格的には「成仏」の「成」ということです。
「現成(げんじょう)」の「現」は有りのまま、手の付けようもないことです。
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)で云えば「不思量底を思量す」の不思量にして即ち「非思量」の境界(きょうがい)です。
物の外に自己というものが有(在)れば「物と我」との隔てが付いて衝突せざるを得ません。
この「現」にはその物ばかりにして何の雑物も無いから、このくらい親しいものはないのです。
全ての物は有形無形を問わず、物その物のみにして、その物の外に思慮や分別の入る隙間が無いはずです。
これを「不思量にして現ず」といいます。
坐禅はこれが標準なのです。
ですから、この事は「坐禅」して自覚する外に道はないのです。
これを「人は坐禅するにあらず、坐禅に坐せらるるなり」というのです。
そこのところを祖師は「自己を忘ずる時、己ならざるは無し」と云いました。
故に宇宙は全自己となって現成(げんじょう)するのです。
「解脱(げだつ)」が自覚に至る最終的な状況においては、それまで「道標(道しるべ)」にしてきた、あらゆる教義や信仰思想や文化、更には人間(にんげん)特有のものの見方の一切を「手放す」ことが出来なければならないのです。
見ている人の対象が変われば、過去と未来の関係も異なったものになるのです。
見ている人が対象を見る時間軸が異なれば、そこに観察される「現象」も異なった形をとるのです。
「現象世界」では、それぞれの人が、自分の感知できる波動領域の中で受けた印象を判断しているに過ぎないのです。
「知識」が日常生活にほとんど反映されていなかったとすれば、その人は「知(識)っていた」にもかかわらず、それを実行していなかったという点で、「知(識)らずに」行った人の過ちに比べてはるかに大きな「カルマ」を造ることになるのです。
「覚者のお言葉」も、伝える相手が「自意識の中」で、過去の経験を寄せ集めた「観念(妄念)」に因って受け取った場合には、その「真意」は伝わらず、むしろ、つまずかせることになります。
「知識(観念)」として知っていることと、実際に「悟り」を開いてその真意を識る(しる)ことは全く別の問題なのです。
「素直」とは「素(もと)から直(じか)に」ということです。
つまり、「悟りの体験から直接に」ということです。
言葉に因って起こされる概念の一切は、人間(にんげん)の心の中で生じている「法の働き」です。
また、外の世界を認識しようとする意識の働きに因る、心に投影された「想念の波動」なのであって、自然界に実在しているエネルギー状態そのものではないのです。
知ることも、知らぬことも、半分しか知らぬことも、それはすべてあなたの「事実」です。
そのままにして自分を残しては、成ることも成りません。
「悟る」とは、自分が自分に成ることです。
「悟りの證明」には、「事実の證明」と「理論の證明」が在ってはじめて成り立つことです。
「正しい」という言葉は「一つに成った事」で、正邪の正ではありません。
考えそのものに成るということです。
自分のものではない、おシャカ様の「道」を歩くから、「道」が見えないのです。
おシャカ様の考えは全て「結果論」です。
「今の自己」が最も重要で確かです。
この意味で、おシャカ様の教えは不要です。
自分が「今」どういう状態で生活しているか、その事が一番問題にならなければいけないのです。
分かる、分からない、には継ぎ目がありません。
どちらも「一つ物(同じ物)」から出ているのです。
「人も縁起の法そのものである」ということを理解することが大切です。
「仏性(ぶっしょう)」という言葉を聞いただけで「仏の性」としか理解していない人が多いです。
しかし、そうではありません。
仏性から言えば、「仏性の働きのまま」なのです。
何物も無くなった処が「道」の究極です。
「そのまま」とは、「有りのまま」ということです。
「このままで善かった」と、いうことです。
心の働きを摂(おさ)めるのに、動かないようにするのは心を摂める事にはなりません。
動きのままに任せるのがその方法です。
あなたの「今」が涅槃の状態です。
しかしもし、あなたが涅槃にあると知ったなら、直ちにその外にあります。
人は「今」を認められないのです。
唯、未来と過去しか認められないのです。
「法理」として「事実」というものは、考えの先にあって考えを起こした時は、「事実」は既に亡くなっているということです。
ですから、私たち衆生は考えによって考えをより以上に洗練したり、考えの中で「事実」に達しようとしても出来ないのです。
「認識は事実の後に生じる」という事を知らない為に「先に目的を持たない」という考えが成立してしまうのです。
いわゆるそれが「無所悟無所得(むしょご むしょとく)」というものです。
「考えがあってから、事実がある」と思ってしまうのです。
「法理」とは、法の原理、法の道理という事です。
しかし、本来「法理」は蛇足です。
一応「法理」は聞いてもらって、「法理」は必要でなかったという事を知ってもらう為に指導者は話をするのです。
病人には薬が必要ですが、病人でない人には薬は不必要です。
むしろ無い方が良いのです。
むしろ無い方が良いのです。
しかし病気でないのに病気と考える人には、薬を見せる必要があります。
それが「衆生本来仏なり」というお言葉です。
「今」それを信じたならば、おシャカ様の教えは不必要です。
しかし、自我の為になかなか信じられないのです。
それで指導者は「法理」の薬を与えるのです。
「徹頭徹尾」という言葉があります。
「時間以前」「人の生まれる以前」「物の生ずる以前」そういう「事実」を、「今」「ここにおいて」、他で求めるのではないのです。
「今」ここにおいて、そういう「今の事実」がきちんとしていることを分かって頂きたく思います。
「今の事実」に徹してみて初めておシャカ様の教えというものの様子がうかがえるのです。
また、自分自身にも本当に満足が出来るのです。
そこまでいかないと、どうしても「真の満足」が出来るということはおぼつかないのです。
自分の事ですから、本当に自分で必ず満足のいくものです。
自分自身に自分自身が聞いてみて、はっきり言いきれる、そこまで自らで本当に「功夫(くふう)」してもらいたいと思います。