活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

おシャカ様の尊さ2

2022年12月28日 | おシャカ様

始めからいちいち、そういうふうにすっかり解脱した境界(きょうがい)に誰でもいるのですが「そんなことが」という気がするものです。

 

「そんなことが道なのか」と思うのです。

 

それだから困るのです。

 

「道」というものを遠いところに求めて理想を描くからです。

 

人間(にんげん)が理想を描いていると、如何にも立派そうですけれどもそれが「迷いの根」なのです。

 

それを知(識)らないのです。

 

ほとんどの人が如何すべきか、何処が本当なのかちっとも分らずに乱れ騒いでいるのです。

 

「仏教」というものは、そういうものの中心をきちんと今教えているのです。

 

おシャカ様はそういう「尊い道」を教えられたのです。


おシャカ様の尊さ1

2022年12月20日 | おシャカ様

「仏道の教える道」は私たち衆生がこれから立派な者に成るのではないのです。

 

これから解脱するのではないのです。

 

私たち衆生は最初から解脱していたという事なのです。

 

私たち衆生は忘れているのです。

 

ですからそういう事に私たち衆生は気付いてみる事が大切なのです。

 

それは何故かというと、おシャカ様が「大悟(だいご)」された時に「一切の衆生は如来の智と徳と相とを全部具えているではないか」とおシャカ様ご自身がそのように宣言して居られるからです。

 

「仏道」で言う「「救われる」ということは、外の人を救うのではありません。

 

自分自身が自分自身を本当に救う道なのです。

 

それを教えられたのが「仏祖」です。

 

それですから「おシャカ様は尊い」のです。


おシャカ様の坐禅2

2022年12月18日 | おシャカ様

「何とかして正覚(しょうがく)を得なければならない」という事、ただそれだけだったのではないでしょうか。

 

今の多くの坐禅をしている人達の問題は一切問題ではなかったと思います。

 

繰り返しになりますが、「何とかして、どうにかして正覚を得なければこの坐を立たない」というその「菩提心」だけなのではないでしょうか。

 

他の事はもう問題ではなかったと思われます。

 

そういうものが無くして、只、坐禅の手段や方法だけを問題にしている間は「それだけ」に過ぎません。

 

そこのところを、もう一度よく自分で「本当に道(法)を求める心構えに成っているかどうか」という事を考えて頂きたいと思います。


おシャカ様の坐禅1

2022年12月16日 | おシャカ様

おシャカ様は坐る上に於いては指導者はいなかったのです。

 

ところが、今の多くの坐禅をする人たちは「どのように坐ったらいいのだろうか、どうしたらよいのだろうか」という事だけが問題になっているのです。

 

「どのような坐り方によって悟りを得られるのだろうか」という事だけが気になっているのです。

 

ですから、おシャカ様の坐禅と自分の坐禅とは全然違うという事に気が付いてもらわなければなりません。

 

おシャカ様は自己を苦しめることによって解脱が得られると思いましたけれども、そうではなかったことに気が付かれました。

 

そして自分が正しい解脱を得ることが出来なければ「この坐を立たない」という固い決心の元、(今でいえば坐禅ですけれども)坐られたということです。

 

おシャカ様は歴史の上では非常に立派な坐禅をしておられたように書かれていますが、「事実は身も心もボロボロ」になった様子であったに違いありません。


道はひとつ

2022年12月13日 | 法理

何万という数の宗教が存在すると思います。

 

それぞれ皆さんの宗教を信じて行地ておられます。

 

私はそういう事実を否定するわけではありません。

 

その自分の信じる宗教の内に私が常々申し上げている「活かして生きる修行」を取り入れて頂くと、皆「道はひとつ」に成ります。

 

そして皆さんそれぞれの宗教の教えに依って本当の平和な自由な人に成れるということです。

 

ですから、今信じている「宗教(教え)」を止めて「他の宗教(他の教え)」に変わろうと思う必要は全くありません。

 

そのまま自分の宗教を大切にしつつ「活かして生きる修行」を少しでも毎日の生活のうちに取り入れて充実した日常生活を送って頂きたいと思います。


覚者の願い2

2022年12月07日 | 法理

「私は修行しています」という人が居たらそれは「我見の中で修行している」という事です。

 

「正しい道」を聞いて、「我見」を持って修行すれば必ず「我見から離れる事(結果に至る事)」が出来るのです。

 

別の言い方をすれば人から与えられたものを、自分の問題として考えなければならないということです。

 

「覚者の願い」は救いを求めて集って来た人たちが自ら「覚者に成る道」を歩み、それぞれが覚者に成ってほしいのです。


覚者の願い1

2022年12月05日 | 法理

分かっている人も分からない人もどんな状態であっても「間違った道」というものはありません。

 

全て「道」なのです。

たとえ途中のものであっても途中が道(結果)なのです

 

私たち衆生は「自己の正体」を見極めなければならないのです。

 

たとえおシャカ様の教えであろうともそれは自分の事ではありません。

 

自分は「自己の正体」を見極めなければならないのです。

 

覚者は「特別なことをしても何も好いことはありませんよ」といわれていますが、覚者からそのお言葉が出るまでには相当のご苦労をなさっている訳です。

 

ですから結果に至ってみれば特別なことをする必要が無かったんだというようにお示しなさっている訳です。

 

是非覚者のお言葉を自分のものにして頂きたく思います。


覚者の真(深)意

2022年12月03日 | 法理

覚者の用いる「本当とか本来」というお言葉の真(深)意は、私たち衆生の錯覚(錯誤)を「正す(指摘する)」為に用いているのです。

 

ですから私たち衆生はその誤りに気付けば、そのお言葉は不要になります。

 

しかし私たち衆生は各社の指摘を受けると「自己の正体を見極める」という「自分の問題」を忘れて覚者のお言葉の中に真(深)意を探り、「法(道)」を遠くに求めてしまうのです。

 

ですから「覚者の老婆心切」はそれはそれで有り難く承り、自分の問題である「自己の正体を見極める」ことに専一にならなければなりません。

 

ある覚者は「本来の衣」を掛けてはいけませんと、後進の私たち衆生を諭して居られます。