活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

純粋な働き1

2019年11月30日 | 法理

私は「因縁生」ということをよく申し上げていますが、一切全てのものは

因縁に因って生じて(出来て)おり、実体は有(在)りません。

 

これは決して人間(にんげん)が創造したものではありませんし、私たち衆生自身も

因縁に因って生じた(出来た)のです。

 

ものがどうして出来た(生じた)ということは誰も知(識)りません。

知らず識らずに生じた(出来た)のです。

 

「不知不識生(ふちふしきしょう)」なのです。

 

それほど実体の無いもの同士が世活している訳です。

ですから、誰が創ったものでもないし、何時何処で何のように生じた

(出来た)のか誰も分からないのです。

 

本当に中心のないものですから見たら見たものと一つ、聞いたら聞いたものと

一つに成れているということなのです。

 

隔てをつくるもの、区別をつけるものは何にも無いのです。


直指人心見性成仏4

2019年11月29日 | 語録

「楞伽経(りょうがきょう)」に「四十九年一字不説」とあります。

 

おシャカ様の四十九年の説法は「菩提心を発動させること」「一発心(いっぽっしん)」

を促すに過ぎなかったのです。

 

それは自分で見てとるより外にありません。

 

おシャカ様在世の時は「九十六の外道」があって心外(しんげ)に「法」を

求めて大苦悩大顚倒(だいてんどう)していたのです。

 

「迷悟」に陥っていたのです。

 

それを転じて「この道」に向けしめんが為に、縦説横説したのです。


直指人心見性成仏3

2019年11月28日 | 語録

「外道」は心の外に「法」を求めたから「我見」があるのです。

 

「この仏語(直指人心見性成仏)を「実」にするのが「坐禅の特徴」です。

 

元来「心そのもの」は説くに説かれぬものです。

 

しかし、おシャカ様はこれを説いてその内容を渇仰するように上手に説いた

のです。


直指人心見性成仏2

2019年11月27日 | 語録

その「実」とはどんなものかと言えば、時間、空間、「三世十方(さんぜじっぽう)」

「過去、現在、未来と東西南北、上下四維(天と地、西北、西南、東南、東北)」が

自在になります。

 

これを禅語では「宝剣手に在り、殺活(せっかつ)自在」といいます。

 

実に楽しく心地よいものではありませんか。

自己の持っている「心」を自己が知らないとは、実に浅ましいことだと思います。

 

そのことをおシャカ様は「心外(しんげ)に別法無し」と、道元禅師は

「萬法唯心(まんぽうゆいしん)」とはっきりとお示しになっております。


直指人心見性成仏1

2019年11月26日 | 語録

達磨大師は「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」と

言われました。

 

「性」とは私たち衆生の「本具(本来具有の略)の心」をいいます。

「この心」は、”コロコロ”で自在を意味するのです。

 

眼を開けば天地は眼中に在り、思いをめぐらせば、古今は私たち衆生の「方寸(心)」

にあります。

 

そのことを「觸處元来不二(そくしょがんらいふに)といいます。

 

「辺量」のないものが「心」です。

それで方寸といい、眼というのです。

 

「無限」に即ち「絶対」です。

 

「この性が我が手に入れば(見性すれば)」これこそ「成仏」と見るべきもので

世にこれを「見性悟道」と言われています。

 


四十九年一字不説11

2019年11月25日 | おシャカ様

「真実(事実、法、道)」というものは「考え方(認識)」の先にあって

「考え方(認識)」を起こした時は、「真実(事実、法、道)」というものは

なくなってるのです。

 

・誰も皆 我がものと見てとって そっと程よく扱へよ君

・尋ねても 尋ねあてぬぞ道理なり 尋ぬる人が尋ねらるる人

 


四十九年一字不説10

2019年11月24日 | おシャカ様

それからそれを「土台」にして「発展(生長)」して「生活(活動)」している

のが私たち衆生なのです。

 

それが今になってから「真実(事実、法、道)」に対して「迷い(疑問)」が生じて、

それを考え方をもって、「解決(解消)」しようとするから、ますます分からない

ようになるのです。

 

何故ならば「真実(事実、仏、道)」は「体感の次元」であり「考え方(認識)」は

「思考の次元」だからです。


四十九年一字不説9

2019年11月23日 | おシャカ様

本当に「真実(事実、仏道)」に成ってしまえば、自分をも含めて何もない

のが本当です。

 

私たち衆生は何気なく日常生活を送っていますがその事に満足が得られない

ものです。

 

何故、満足が得られないのかというと、「子供の時分に物心が付いた」から

です。

 

「物心がどうして付いたのかと言うこと」は誰一人として分かりません。

「物心が付いた途端」にどんな人でも皆そうなるのです。

 

これは「人間の本性(ほんしょう)」なのです。

「法の働き」です。

それを「認識」というのです。

 

「識」を初めて認めたのです。

子供自身には物心が付いたという「自覚」がありません。

 

それですから「無明の煩悩」と言われているのです。


四十九年一字不説8

2019年11月22日 | おシャカ様

「仏法(仏道)」という「法(道)に従って究極に至らなければならないのです。

 

既に、「仏(道)」の中に居りながら「法(道)」を探し求めるというのは

「非常に矛盾した事」ですけれども、それを行わなければならないのです。

 

実に「余分なこと」ですけれども、それを行わないと「真実(事実、法、道)」

というものは本当に分からないのです。


四十九年一字不説7

2019年11月21日 | おシャカ様

私たち衆生は、「四十九年一字不説」というと、何かそれが「仏法(仏道)」

の大意究極だと考えがちですけれども、「仏道(仏法)」ということを、

思ったり考えたりすることでも既に「言葉(文字)」に囚われて迷いの元に

なるものです。

 

「四十九年一字不説」という「言葉(文字)」はあっても実体はありません。

 

ですから「四十九年一字不説」という「言葉(文字)」を使った実体のない、

その「事実」を自分のものにする以外にないのです。